5 フランスの政情
フランスは第一次世界大戦で国土が戦場となったので、戦争の被害が最も大きく、戦勝国にもかかわらず戦後経済的・社会的苦難に直面した。
そのため戦後のフランスではドイツに対する報復姿勢が強く、パリ講和会議ではドイツへの制裁を強く要求し、出来る限り重い賠償義務を課そうとした。
パリ講和会議にフランス全権として出席したクレマンソーは、1920年の大統領選挙に敗北して政界を引退した。
1922年に首相となったポワンカレ(ポアンカレ、任1922〜24)は、ドイツに対する強硬政策をとり、1923年1月にはドイツの賠償不履行を理由にベルギーとともにルール占領(ルール出兵)を強行した。フランスはドイツの賠償金総額の52%を受け取ることになっていた。
しかし、ドイツがストライキなどで抵抗したためにドイツ経済は混乱に陥り、フランスも得るところなく1925年には撤兵した。
こうした対独強硬策の失敗が明らかになる中で、ポワンカレ内閣は国民の支持を失い、1924年5月の総選挙では左派連合が過半数を獲得し、急進社会党のエリオ(1872〜1957)を首班とする左派連合内閣(1924〜25)が成立した。
左派連合内閣で外相を務めたブリアン(1862〜1932)はドイツとの協調に転じ、ルールから撤兵し(1925.5)、ロカルノ条約(1925.10)を結んで独仏関係の好転に努力した。彼はその功績によってノーベル平和賞を受賞した(1926)。
左派連合内閣はソ連を承認する(1924.10)など対外問題では実績を上げたが、国内ではインフレを克服できず、1926年7月には左派連合内閣にかわってポワンカレ挙国一致内閣(1926〜29)が成立した。
ポワンカレは蔵相を兼任してインフレと財政危機の克服に努めたのでフランス経済は急速に回復した。またこの内閣でも外相を務めたブリアンは不戦条約(1928)を提唱して国際平和に貢献した。