3 アジアの情勢

5 インドの独立運動

 第一次世界大戦が起こると、イギリスはインドに戦後の自治を約束し(1917年8月にインド担当相モンタギューが行った)、インドの協力を求めた。インド人はその約束を信じ、120万の兵員を動員し、物資を供給してイギリスに協力した。

 しかし、1919年に公布されたインド統治法では州自治の一部が与えられただけで、インド人の期待した自治の約束にはほど遠いものであった。

 その上イギリスは、1919年3月にローラット法を発布し、逮捕令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄を行う権限をインド総督に与え、インドの民族運動を弾圧した。

 1919年4月13日、パンジャーブ地方のアムリットサル(アムリツァール)で開かれた自治の約束無視とローラット法発布に対する抗議集会に集まった約1万人の群衆にイギリス軍が発砲し、約400人が死亡し1000人以上が負傷するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インドの反英運動は激化した。

 この時期にインドの民族運動の指導者として、反英独立運動の先頭に立ったのがガンディーであった。

 ガンディー(1869〜1948、マハトマ=ガンディーのマハトマは「偉大な魂」の意味)は西部インドの下級官吏の家に生まれ、ロンドンに留学して(1888〜91)弁護士となり、帰国後南アフリカに渡ってサティヤーグラハ(サティヤーは真理、グラハは把握の意味、ガンディーはこの言葉に非暴力抵抗の意味を与えた)の運動を指導し、人種差別政策と闘い(1893〜1914)、帰国(1915)後国民会議派に加わった。

 ガンディーは第一次世界大戦には自治の約束に期待してイギリスに協力したが、戦後約束が守られないと、「われわれはパンを求めて石を与えられた」とイギリスの背信をなじり、ローラット法が施行されると非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の運動を指導した(第1次1919〜22、第2次1930〜34)。

 大戦中から反英的になっていた全インド=ムスリム連盟も国民会議と提携したので(1920)、イギリス商品のボイコット・イギリスの行政機関への非協力・公立学校の生徒の退学・商店の自主的休業・地租支払い拒否などの運動が全インドに広がった。

 しかし、1922年2月に蜂起した農民が警察署を襲って警官22名を殺害するという出来事が起きると、ガンディーは不服従運動の中止を宣言したが逮捕され、6年の懲役に処せられた。

 ガンディーは2年後に釈放されたが、その後数年間は政治から離れ、以後国民会議派内の分裂やヒンドゥー・イスラム両教徒の対立などもあって運動は停滞した。

 この頃、国民会議派内ではネルー(ネール)を指導者とするより急進的なグループ(国民会議派左派)が台頭してきた。

 ネルー(ネール、1889〜1964)は、アラハバード市で富裕なバラモン階級の弁護士の子に生まれ、イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業し、弁護士の資格を得て帰国した(1905〜12)。帰国後弁護士となったネルーはガンディーと出会って国民会議派に入り、民族運動に身を投じた(1920頃)。そして国民会議派の若手の政治家として活躍し、1920年代後半からは国民会議派の指導者となった。

 1929年12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ=スワラジ(完全なる自治)」が宣言された。ラホール大会を機に運動は再び激化し、翌年から第2次の非暴力・不服従運動(1930〜34)が始まった。

 1930年3月、再び運動の先頭に立ったガンディーは製塩禁止法に反対して360kmに及ぶ有名な「塩の行進」を行ない、再び逮捕された。

 翌年釈放されたガンディーは、ロンドンで開かれた第2回英印円卓会議(イギリスがインドの独立運動の高まりを抑えるために指導者をロンドンに招いて開いた会議)に出席したが、何ら成果のない会議に絶望して帰国し、3度逮捕された(1932.1)。1934年に国民会議派を引退したガンディーは、その後不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼らをハリジャン(神の子)と呼んだ。

 イギリスは指導者を逮捕・投獄する一方で英印円卓会議(1930〜32)を開くなど、弾圧と懐柔をくり返す中で、1935年には新インド統治法(改正インド統治法)を制定した。

 新インド統治法では連邦制と各州の責任自治制が導入されたが、インド人の完全独立の要求は無視され、かえってその導入をめぐってヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド=ムスリム連盟の対立が深まった。




目次へ戻る
次へ