5 ロシア
1861年の農奴解放以後、徐々に発展したロシアの資本主義は、1890年代に入ると、特に露仏同盟の成立後(1891〜94年に成立)、フランス資本の援助が増大して重工業を中心に急速に発展した。しかし、ロシアは国内市場が狭小だったので、市場を求めて極東や中央アジアに進出した。
ヨーロッパ=ロシアと極東を結ぶ世界最長の鉄道(全長6484km)であるシベリア鉄道の工事は、フランス資本の援助のもとで1891年に始まり、1905年までに東清鉄道と結ぶ線が完成した(北方領内線の完成は1916年)。シベリア鉄道はシベリア開発やロシアの極東政策の推進に大きな役割を果たした。
資本主義の発達とともに都市では大工業が成長し、工場労働者の数が急増する中で低賃金などの劣悪な労働条件に苦しむ労働者の間には社会主義思想が広まった。
そして1898年にはプレハーノフ(1856〜1918、ロシアのマルクス主義の父とされている)やレーニン(1870〜1924)らによってロシア社会民主労働党が結成された。しかし、政府の弾圧を受け、指導者の多くは国外に亡命した。
ロシア社会民主労働党は、1903年にロンドンで開かれた第2回大会で党の綱領決定をめぐって、レーニンの率いるボリシェヴィキとマルトフ(1873〜1923)・プレハーノフの率いるメンシェヴィキとに分裂した。
ボリシェヴィキ(多数派の意味)が党を労働者・農民を基礎とする少数の革命家の集団とすることを主張したのに対し、メンシェヴィキ(少数派の意味)は広く大衆に基礎をおいて中産階級とも妥協して漸進的な革命を主張した。
ロシア社会民主労働党に続いて、1901年には社会革命党(エスエル)が結成された。社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農民を地盤として専制の打倒と土地分配を主張した。
さらに1905年には立憲民主党(カデット)が結成された。立憲民主党はブルジョワの自由主義者が結成した政党で立憲君主制の確立を目ざした。
日露戦争の戦況が不利になると国民の不満が高まり、1905年1月22日の日曜日、首都ペテルブルクで血の日曜日事件が起こった。
この日、僧ガポン(1870〜1906)に率いられたストライキ中の労働者を中心とするペテルブルクの十数万人の労働者とその家族は生活の窮乏を訴えた請願書を持って冬宮へ請願行進をした。しかし、いかなるデモも認められていなかったので軍隊がこの行進に発砲し、冬宮前広場などで2000人を越える死傷者が出た。
この血の日曜日事件をきっかけに、工場労働者のストライキ・農民一揆が各地で起こり、6月には戦艦ポチョムキン号の反乱が起き、革命は軍隊にまで波及した。さらに10月に入ると全国的なゼネストが起こり、各地でソヴィエトが結成された。
これがロシア第一次革命(第一次ロシア革命、ロシア第一革命、1905.1〜05.12)である。
労働者は革命を進めるために工場を母体に選挙で代表会議を組織した。これがソヴィエトである。ソヴィエトとはロシア語で会議・評議会の意味である。
ポーツマス条約を締結して(1905.9)帰国した自由主義者のヴィッテ(ウィッテ、1849〜1915)は、この情勢を見て皇帝に改革を進言した。
ニコライ2世(位1894〜1917)は、革命の鎮静をはかるためにヴィッテの進言を容れ、1905年10月に十月宣言(十月勅令)を発し、国会(ドゥーマ)の開設と憲法の制定そして思想・言論・集会・結社の自由を約束し、その翌日ヴィッテを首相に任命した。
ブルジョワ自由主義者は十月勅令に熱狂し、これによって革命は大きく後退し鎮静化した。しかし、労働者・農民はこれに満足せず、12月にはモスクワなどで武装蜂起が起こったが鎮圧され、ロシア第一次革命は終わりを告げた。
1906年5月、十月勅令で約束された国会(ドゥーマ)が開かれた。この時召集された議会は帝国参議院(半数が勅選議員)と帝国議会(ドゥーマ)の二院からなっていた。
しかし、立法権は皇帝・帝国参議院・帝国議会の三者が共有し、全ての法律案の発議権は皇帝のみにあったので、国会は立法の協賛権を持つだけでほとんど権限がなかった。
国会が混乱のうちに解散されるとストルイピンが首相となった(1906.7)。
ストルイピン(1862〜1911、任1906〜11)は貴族地主出身の政治家で、内務官僚となり、国会が開かれたときに内務大臣となった。国会が解散されると首相に就任し、革命派の徹底的弾圧などの反動政治を強行し、また土地改革を中心とする内政改革を行った。
いわゆる「ストルイピンの反動」の時期(1906〜11)に約4000人が処刑されたといわれ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。
ストルイピンの内政改革の中で最も重要な改革は土地改革(1906.11)であった。
農奴解放令(1861)では、農地の分与は有償であったので、買戻金が支払えない多くの農民の土地はまとめてミール(農村共同体)に引き渡され、ミールの共有地となった。
ストルイピンの土地改革は、ミール(農村共同体)を解体し、農民がミールを離れることを許し、農民に土地を分与して自作農になる道を開くものであったので、これによって1916年までに全農家の22%がミールを離脱し、約200万戸の自作農が創出された。
ストルイピンの土地改革の目的は、自作農になった農民の中から富農を育成して「帝政の支柱」にすることにあったが、独立した自作農の半分以上が自由競争に敗れて多くは労働者に転落し、農村内部では富農と貧農の対立が激しくなった。
改革が行きづまる中で、皇帝・地主との対立が深まり、ストルイピンは警察のスパイに暗殺された(1911.9)。
社会不安が増大する中で、ロシアは国民の不満をそらすためにバルカンへの進出を強め、ドイツ・オーストリアと衝突して国際的な緊張を高めた。