5 中華人民共和国の成立
日本の侵略に耐えぬき、日本との戦いに惨勝(当時の中国ではこう表現された)した中国は、大戦中の1943年1月に米・英と新条約を結んで不平等条約を撤廃させ、戦後は国際連合の常任理事国(五大国)の一員になるなど国際的地位を向上させた。
しかし、国内では大戦末期から表面化していた国民党と共産党の対立が続いた。
毛沢東は、内戦を回避するために1945年8月末に重慶に赴き、蒋介石と1ヶ月以上にわたって交渉を続け、「双十協定」(1945.10.10)を結んで国内和平・内戦回避・政治協商会議の開催で合意した。
翌1946年1月10日、双十協定に基づいて国共停戦協定が成立し、同日、政治協商会議が開かれた。中国の全政党・団体の代表によって国共内戦収拾のために重慶で開かれた政治協商会議では統一政府の樹立などが決議された。
しかし、蒋介石は、3月にこの決議を破棄し、6月には解放区(中国共産党の支配地域)への進撃を命令したので、1946年7月から国共両軍による全面的な内戦が始まった。
国共内戦が始まってから約1年間は、アメリカの支援を受けた国民党軍が圧倒的に優勢で、1947年3月には共産党の根拠地である延安をも占領した。
この間、蒋介石は、1947年1月に国民政府の新憲法を公布し、翌1948年4月には総統に就任した。しかし、国民党内では腐敗や汚職が目立ち、法幣の乱発によるインフレが進んだので、国民政府に対する国民の不満が高まった。
これに対して共産党は、毛沢東の指導のもとで内戦を戦う一方、農村で地主の土地を奪い取って貧しい農民に分け与える土地改革を実施して農民の支持を得、1947年半ば頃から反攻に出た。
1948年に入ると、人民解放軍(中国共産党の指導する一切の軍隊を1947年3月に改称)は東北・華北・北西の各戦場で勝利を重ね、4月には延安を奪回した。さらに9月から12月にかけて、遼瀋戦役(東北地方での戦い)・淮海戦役(徐州一帯での戦い)・平津戦役(北京・天津方面での戦い)の三大戦役に勝利し、11月初めまでに全東北地方を占領し、翌1949年1月末には北京に入城した。
蒋介石は、1949年1月についに総統を辞任し、4月には北京で和平会談が開かれた。しかし、国民党が共産党の要求を拒否したので、人民解放軍は総攻撃を開始し(4月21日)、南京(4月)・武漢(5月)・上海(5月)を占領し、敗走する国民党軍を追って南下を続け、1949年12月までに台湾を除く中国全土を解放した。
こうした状況の中で、国民党政府は1949年5月以降台湾移転を開始し、蒋介石は1949年12月に50万の軍とともに台湾に亡命した。
この間、中国共産党は、1949年9月に国民党を除く民主勢力を北京に召集して人民政治協商会議を開き、臨時憲法的な性格を持つ共同綱領を採択した。また国号を中華人民共和国とすること、北平を北京と改称して首都とすること、毛沢東を主席とし朱徳(1886〜1976、中国共産党の指導者の一人、主に軍事面を担当した)・劉少奇(1898〜1969、中国共産党の指導者の一人、1959年に国家主席に就任、文化大革命で失脚)らを副主席とすること、そして周恩来(1898〜1976、中華人民共和国の初代首相・任1949〜76)を首相とすることなどを決定した。
1949年10月1日、毛沢東は天安門広場に集まった30万人の人々を前に中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。
新しく成立した中華人民共和国の国家の性格については、共同綱領に「中華人民共和国は新民主主義、すなわち人民民主主義の国家であり、労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とする」と書かれている。
新民主主義は、毛沢東が1940年に「新民主主義論」で提唱した革命理論である。毛沢東は、帝国主義段階における植民地・半植民地における革命は、農民階級との同盟の上に立つ労働者階級に指導されるブルジョワ民主主義革命、すなわち新しい型の民主主義革命であると述べ、中国では新民主主義革命は五・四運動に始まり、人民共和国の成立で基本的に終わり、社会主義の過渡期が始まるという理論を展開した(山川出版社、世界史小辞典より)。
毛沢東は、建国後間もない1949年12月にモスクワを訪問してスターリンと会談し、翌1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。これは冷戦の激化と日本の軍国主義復活にそなえた軍事同盟で、1979年に破棄が宣告され、翌年解消するまで続いた。
中華人民共和国は、1950年6月に土地改革法を公布し、1952年までにほぼ全国で土地改革を実施した。これによって農民は地主の支配から解放されて土地を手に入れた。
また企業や交通機関・銀行・貿易の大部分を新国家の成立とともに国営に移管した。そして1953年にはソ連の援助を受け、ソ連をモデルとした第1次五カ年計画(1953〜57)に着手し、社会主義的工業化と農業の集団化を推進した。
1954年9月には、中華人民共和国憲法が採択され、「社会主義工業化と社会主義改造を通じて、一歩一歩搾取制度をなくし、社会主義社会を建設する」ことが謳われた。
中華人民共和国は、成立の翌日にソ連によって正式承認され、続いて東欧の人民民主主義諸国からも承認された。さらにインド(1949.12に承認)などアジア諸国・イギリス(1950.1に承認)などヨーロッパ諸国からも承認され、1950年までに計25カ国から承認された。
しかし、アメリカは台湾の中華民国政府(台湾国民政府、蒋介石政権)を中国の正統政府とする立場をとり、その政策は1972年2月のニクソン訪中まで続いた。
中華人民共和国の成立・アジアの社会主義大国の出現は、アジア・アフリカの民族独立運動の発展や冷戦構造の変化など、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼした。