4 米ソ超大国の動揺

1 アメリカ合衆国とヴェトナム戦争(その1)

 アメリカでは、1961年1月に、民主党のジョン=F=ケネディ(1917〜63、任1961〜63)が、トルーマン(民主党、任1945〜53)・アイゼンハウアー(共和党、任1953〜61)に次ぐ戦後3人目の大統領に就任した。

 ケネディは、アイルランド系移民(貧しい移民の代名詞だった)の子孫として、マサチュセッツ州に生まれた。ハーヴァード大学を卒業、第二次世界大戦では魚雷艇の艦長を務めた。戦後、政界に入り、下院議員・上院議員(1953〜60)を経て、1960年の大統領選挙で民主党の候補者となり、共和党のニクソンに小差で勝って第35代大統領となった。

 ケネディは、WASP(ワスプ、ホワイト・アングロ=サクソン・プロテスタントの略)が中心と成すアメリカ社会にあっては、最初のカトリック教徒の大統領であり、また史上最年少の大統領であった。アメリカ国民は、この若い大統領に大きな期待を寄せた。

 ケネディは、内政では「ニューフロンティア」をスローガンに掲げ、都市問題・貧困層の救済・人種差別問題・教育問題などの困難な問題の解決に取り組む「ニューフロンティア政策」を推し進めた。

 外交面では、1961年6月にウィーンでフルシチョフと会談し、ベルリン問題をめぐって激しく対立した。また8月には、キューバ封じ込めのために「進歩のための同盟」を提唱し、ラテン=アメリカ諸国の共産化阻止をはかった。

 さらに、1962年のキューバ危機に際しては強硬な姿勢をとり、フルシチョフの譲歩を引き出した。しかし、その一方で、1963年には直通通信(ホットライン)協定に調印し、同年7月には部分的核実験停止条約にも調印した。

 1963年はリンカーンの奴隷解放宣言から100年目の年であったが、アメリカ国内では依然として黒人差別が強く残り、南部では黒人隔離政策が続いていたので、各地で黒人差別反対運動が高まった。

 同年8月には、20万人による「ワシントン行進」が行われ、キング牧師(1929〜68)は「私には夢がある。いつの日にかジョージア州の丘で、かっての奴隷の子孫と奴隷主の子孫が兄弟として同じテーブルに座るときが来るという夢がある。私の幼い4人の子どもたちが、いつの日にか皮膚の色ではなく人格によって評価される国に住むという夢がある」(NHK、映像の世紀より)という有名な演説を行った。

 ケネディは、公民権法(黒人差別・人種差別などの撤廃を定めた法律)の立法化を約束し、議会に法案を提出するとともに、公民権運動に批判的な南部を遊説した。

 1963年11月22日、南部遊説中のケネディはテキサス州のダラスで暗殺された。ケネディ暗殺の容疑者としてオズワルドが逮捕されたが、彼も2日後に射殺されたので、事件の真相究明の道が閉ざされた。

 ケネディ暗殺によって、ジョンソン(1908〜73、任1963〜69)が副大統領から昇格した。
 ジョンソンは、ケネディの政策を継承し、公民権法を成立(1964.7)させるとともに、1965年には「偉大な社会」計画を発表し、差別と貧困をなくすことを目ざす社会政策を推進した。しかし、1965年2月には北爆にふみきり、ヴェトナム戦争(1965.2〜73.1)への介入を拡大したので、「偉大な社会」建設の政策は行きづまった。

 南北に分断されたヴェトナムでは、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)は、ホー=チ=ミン(1890〜1969)のもとで、中ソの援助を受け、経済復興と社会主義体制の建設に努めた。

 一方、ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)では、ゴ=ディン=ディエム(任1955〜63)が反共親米政策をとり、独裁政治を行ったが、1963年11月のクーデターで暗殺された。

 この間、1960年12月には、ゴ=ディン=ディエムの腐敗した親米独裁政権を打倒するために、共産主義者・民族主義者らを中心に南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン、以下解放戦線と表記)が結成された。以後、解放戦線は北ヴェトナムの支援を受けて次第に勢力を拡大し、ゲリラ戦による武装解放闘争を行ったので内戦が激化した。

 1963年11月のクーデター以後は不安定な政治状況が続き、1965年6月までの間に、13回のクーデターが起こり、内閣が9回交替した。

 1965年6月には、グエン=カオ=キ(1930〜、ヴェトナムの軍人・政治家)の新内閣が成立し、1967年9月の大統領選挙によって、グエン=ヴァン=チュー(1923〜2001、任1967〜75、ヴェトナムの軍人・政治家)とグエン=カオ=キ(任1967〜71)の2人が正副大統領に選出された。

 これより前、1964年8月2日、アメリカの駆逐艦が北ヴェトナム魚雷艇の攻撃を受けたとして、アメリカ空軍は4日に北ヴェトナムの沿岸警備艇や貯油施設を襲撃した。この出来事はトンキン湾事件と呼ばれているが、1970年にトンキン湾事件はアメリカの謀略であることが判明した。

 1965年2月7日、アメリカ軍は解放戦線への北ヴェトナムの支援を断つとして、ついに北ヴェトナムのドンホイへの大規模な爆撃を開始し(北ヴェトナム爆撃、北爆)、さらに南ヴェトナムへの地上部隊投入にふみきったので戦争はヴェトナム全土に拡大した。

 アメリカが、南ヴェトナム政府軍と解放戦線との内戦に、政府軍を支援・介入して始まったヴェトナム戦争(1965.2〜73.1)は、ソ連と中国の援助を受けた北ヴェトナムと解放戦線の抵抗によって、長期化・泥沼化した。




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