アメリカは、最盛期(1968)には53万の軍を派遣し、ハイテク兵器を駆使して大規模な地上戦を展開し、またB52戦略爆撃機による空爆(12万回以上)を行ったが、北ヴェトナムと解放戦線は攻撃に耐え、ゲリラ戦によって抵抗を続けた。
戦争の泥沼化にともない、アメリカ国内では反戦運動が激化し、またハイテク兵器や化学兵器(枯れ葉剤の散布など)の使用によるヴェトナムの惨状が報道される中でアメリカに対する国際的な非難が高まった。さらに膨大な戦費(1968年には300億ドルに達した)はアメリカの財政危機の原因となった。
1968年1〜2月、解放戦線は大攻勢に出、各地でアメリカ軍・南ヴェトナム政府軍を撃破した(テト(ヴェトナムの旧正月)攻勢)。
こうした状況の中で、ジョンソン大統領は、1968年3月に北爆の部分停止を発表し、5月にはパリで北ヴェトナムとの和平交渉に入った。その後、同年10月にジョンソン大統領は北爆の全面停止を声明し、11月にはパリ和平会談に解放戦線と南ヴェトナムも参加した(パリ拡大和平会談)。
1969年1月、大統領に就任した共和党のニクソン(1913〜94、任1969〜74)は、6月に「ヴェトナム化計画」(アメリカ軍の戦いを現地の南ヴェトナム政府軍に肩代わりさせる計画)によるアメリカ軍の段階的撤兵を発表した。
1969年6月に、解放戦線を中心とする南ヴェトナム臨時革命政府が樹立されたが、同年9月には北ヴェトナムのホー=チ=ミン大統領が亡くなった。
1970年4月、アメリカ軍は、いわゆる「ホーチミン=ルート」(北ヴェトナムが解放戦線を援助するために武器・物資などを輸送したルート)を遮断するとして、カンボジアに侵攻し、翌1971年2月にはラオスにも侵攻したので、戦火はさらに拡大した。
1972年4月以降、北ヴェトナムと解放戦線は大攻勢を開始した。これに対してアメリカは、4月に大規模な限定北爆を再開し、5月には北ヴェトナムの全港湾に機雷を敷設し、北爆を続行した。
その間、パリ和平会談は中断・再開をくり返したが、1973年1月27日、ついにヴェトナム和平協定(パリ和平協定)が調印された。ヴェトナム和平協定には、アメリカ・南ヴェトナム・北ヴェトナム・南ヴェトナム臨時革命政府が調印し、ヴェトナムの独立と主権の尊重・南北ヴェトナムの平和的統一・停戦とアメリカ軍の撤退などを約した。
アメリカ軍は、約6万人の死者と約30万人の負傷者を出して、1973年3月までに撤退を完了した。
南ヴェトナムでは、その後も南ヴェトナム政府軍と北ヴェトナム・解放戦線との戦闘が続いたが、北ヴェトナムと解放戦線は1973年4月から全土で攻勢に出、1975年に入ると圧倒的に優勢となった。
1975年4月30日、ついにサイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、インドシナ戦争以来30年間続いた戦争が終わった。
翌1976年4月に南北再統一のための総選挙が行われ、7月にハノイで開かれた統一国会は南北の統一を宣言し、ヴェトナム社会主義共和国が成立した。そして大統領にトン=ドク=タン(前北ヴェトナム大統領)が、首相にはファン=バン=ドン(1906〜2000、前北ヴェトナム首相)が選出された。
カンボジアでは、シハヌーク(シアヌーク、1922〜)が首相(任1955〜60)・元首(任1960〜70)として社会主義と中立政策を推し進めた。
1970年3月、シハヌークのフランス・ソ連・中国への外遊中に、親米右派のロン=ノル国防相がクーデターを起こし、シハヌークを国家元首から解任し、クメール共和国を成立させた。
シハヌークは、亡命先の北京でカンボジア王国民族連合政府を樹立し、カンプチア民族統一戦線(カンボジア民族統一戦線)を結成し、その議長となった。
1970年4月、アメリカはホーチミン=ルートを断つとして、南ヴェトナム政府軍とともにカンボジアに侵攻し、ロン=ノル政権を支援した。
以後、ロン=ノル政権とカンプチア民族統一戦線との間で内戦が続いたが、カンプチア民族統一戦線の中心となったのがクメール=ルージュであった。
クメール=ルージュ(赤色クメール)は、ポル=ポトを指導者に1960年に再建されたカンボジア共産党を中心とする左翼勢力の総称で、1973年以来各地で攻勢に出た。
1974年に入ると、カンプチア民族統一戦線によるプノンペン攻撃が激化し、1975年4月、カンプチア民族統一戦線はロン=ノル政権を倒し、プノンペンに入城した。
新政権(実質的にはポル=ポト政権)は、1976年1月に国名を民主カンプチア(民主カンボジア)と改称し、国家元首にはシハヌーク(1975.9に帰国)が就任した。
しかし、シハヌークはポル=ポト派と対立し、元首を辞任した(1976.4)。以後、ポル=ポト(1925〜98、共産党書記長)が民主カンプチアの首相(任1976〜79)となり、急進的な社会主義化を進め、都市住民の農村への強制移住や大量虐殺を行ったので、カンボジアは荒廃した。
ラオスでも、独立後不安定な政情が続き、1959年には左右の対立から内戦が始まった。
1962年には、中立派のプーマを首班とする三派(右派・中立派・左派)の連合政権が成立したが、1964年には右派のクーデターが起こり、再び内戦となった。
左派のラオス愛国戦線は、1945年に結成されたラオス左派勢力で、ラオス人民革命党が主導権を握った。ラオス愛国戦線は1956年にパテト=ラオ(ラオスの国の意味)と改称した。
ラオス内戦で北ヴェトナムと中国の援助を受けたパテト=ラオが優勢になると、アメリカはラオス東部のホーチミンルートを遮断するため、そしてパテト=ラオの勢力拡大を阻止するために、1971年2月に右派を支援してラオスに侵攻した。
パテト=ラオは侵攻してきたアメリカ軍と戦い、さらに勢力を拡大したが、1973年2月にラオス和平協定が結ばれると、翌1974年4月にはプーマ首相と合意し、ラオス民族連合政府(三派連合政府)を樹立した。
以後、ラオス民族連合政府内ではパテト=ラオの勢力が強まり、パテト=ラオは1975年8月に首都ビエンチャンを制圧し、同年12月に開かれた人民代表大会で王制を廃止し、ラオス人民民主共和国の成立を宣言した。