4 米ソ超大国の動揺

2 「プラハの春」の抑圧と社会主義国の停滞

 ソ連では、1964年10月15日にフルシチョフ党第一書記・首相が、キューバ危機への対応や農業政策の失敗から解任され、党第一書記(1966年以後、書記長と改称)にはブレジネフ(1906〜82、任1964〜82)が、首相にはコスイギン(1904〜80、任1964〜80)が就任した。

 ブレジネフは、国内では豊かな社会主義を目ざして経済の発展をはかり、1966年以降、利潤方式(企業効率を従来の総生産高から利潤率ではかり、より高い利潤率をあげた事業により多くの報酬を与える方式)を一部採用した。また1977年6月にはスターリン憲法(1936年制定)を修正する新憲法(ブレジネフ憲法)草案を発表した(同年10月発効)。

 対外的には、平和共存を推進する一方で、東欧諸国への統制を強化し、1968年の「プラハの春」(チェコスロヴァキアの自由化)に対しては、「ブレジネフ=ドクトリン」(社会主義国の主権は絶対的なものでなく、社会主義圏全体の利益が優先され、内政干渉もやむを得ないという理論)を唱えて軍事介入し、チェコスロヴァキアの自由化を抑えた。

 その後、1973年6月には訪米し、以後デタント(緊張緩和、1970年代米ソで進められた緊張緩和の動きをいう)を進めたが、1979年12月にはアフガニスタンに軍事介入し、国際世論の非難を浴びた。そのため翌年開催されたモスクワ=オリンピックをアメリカ・日本・西ドイツなどの多くの西側諸国がボイコットした。

 ソ連国内では、1960年代後半以後、反体制知識人による政府の言論統制や硬直化した官僚支配などに対する批判が強まったが、政府はこれを抑圧した。『イワン=デニーソヴィッチの一日』や『収容所列島』などの著者で1970年にノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィン(1918〜96)は1974年に国外追放となり、1975年にノーベル平和賞を受賞した「ソ連水爆の父」サハロフ(1921〜89)は1980年に軟禁状態におかれた。

 ブレジネフの18年間に及ぶ長期政権はソ連の政治と経済の停滞をもたらし、ゴルバチョフの登場とともに「ペレストロイカ」(改革)が進められることとなる。

 東ヨーロッパの社会主義国の中では、ルーマニアが、1965年以後、チャウシェスク(1918〜89、1965年共産党書記長、のち初代大統領・任1974〜89)のもとで、ソ連と一定の距離をおく自主外交(独自外交)を展開した。

 チャウシェスクは、西ドイツとの国交回復(1967.1)など西欧諸国との関係回復に努め、また1968年のチェコ事件ではワルシャワ条約機構軍に参加しなかった。チャウシェスクの自主外交は西側からは評価されたが、国内では極端な独裁体制をしいたので、1989年の東欧革命の中で処刑された。

 チェコスロヴァキアでは、1968年1月に、それまで親ソ路線をとってきたノヴォトニー共産党第一書記(1904〜75、任1953〜68)が解任され、ドプチェク(1921〜92)が共産党第一書記に就任した。

 ドプチェクは就任後、保守派(ノヴォトニー派)を排除して新体制を樹立し、1968年4月には「自由化」の行動綱領を発表した。ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱え、社会主義の枠内での市民的自由を認め、市場経済の導入をはかるなどの自由化・民主化を進めた。

 このドプチェクらによって進められたチェコスロヴァキアの自由化は「プラハの春」と呼ばれた。

 1968年6月、チェコの文学者たちは「2000語宣言」を発表した。「2000語宣言」は、全国民に民主化の推進と、これを妨害しようとする保守派との戦いを呼びかけ、ソ連の干渉を非難するものであった。ザトペック(1952年のヘルシンキオリンピックでマラソン・1万・5千の3種目で金メダル獲得)やチャフラフスカ(1964年の東京オリンピックで体操の3種目で金メダル獲得)などをはじめ何万もの市民がこれに署名した。

 1968年8月20日、ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリアのワルシャワ条約機構軍がチェコの自由化を阻止するために侵入を開始し、ドプチェクら要人を逮捕してモスクワに連行した。チェコ市民の抵抗も鎮圧され、チェコの自由化・民主化は阻止され、挫折した(チェコ事件)。

 翌1969年4月にドプチェクは解任され、後任のフサーク第一書記(1913〜91、任1969〜87)は現実的な中道路線をとり、ソ連との関係正常化に努めた。

 チェコ事件は、ソ連の国際的威信を大きく低下させ、アメリカの国際的地位の動揺と相まって、1970年代には、世界は米ソの対立から多極化の方向へと進んでいく。




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