西アジアでは、スエズ戦争(第2次中東戦争、1956〜57)後、イギリス・フランス勢力が後退する中で、アメリカが中東問題に積極的に介入するようになった。
アメリカのアイゼンハウアー大統領(任1953〜61)は、1957年1月に「中東諸国から要請があれば、中東に対するソ連の侵略を阻止するためにアメリカ軍を出動させ、中東諸国に対する経済援助・軍事援助を与える」というアイゼンハウアー=ドクトリンを発表した。
1958年7月、イラクでカセム(カースィム、イラクの軍人、1914〜63)らによる将校団のクーデターが起こり、王政が廃止され(国王ファイサル2世は殺害された)、共和政が樹立された(イラク革命)。
カセムは首相と総司令官を兼任し、バグダード条約機構(METO)から脱退し、ナセルとも対立してアラブ諸国内で孤立した。そのため、1963年2月にバース党(アラブ民族の統一と復興を目ざす民族主義政党)のクーデターが起こり、カセムは処刑された。
イラク革命が起こると、レバノンでは反米運動が激化した。アメリカは、レバノンの革命を阻止するために海兵隊をレバノンに上陸させ(1958.7)、イギリスも降下部隊をヨルダンに進駐させたが(1958.7)、国連総会でアラブ10カ国決議(レバノン・ヨルダン問題解決決議)が可決され、アメリカ・イギリス軍は撤退した(1958.10)。
1962年9月には、イエメンで軍部のクーデターが起こり、王政が打倒され、共和政が樹立された(イエメン革命)。革命後、イエメンではサウジアラビアに支援された王政派とエジプトのナセルに支援された共和派との間で内戦が続いた(1962〜70)。
エジプトは、イエメン内戦でサウジアラビアとの対立を深め、またイエメン派兵やアメリカからの援助打ち切りなどによって経済が悪化した。ナセルはこうした状況を打開するために、1967年5月にイスラエルの紅海への出口であるアカバ湾を閉鎖した。
1967年6月5日、イスラエル空軍は先制奇襲攻撃によってエジプト空軍を壊滅させ、その後もアラブ諸国に圧勝し、シナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川西岸・ガザ地区を占領した。
6月8日、エジプトは国連安保理の決議に従って停戦を受諾し、第3次中東戦争は6月10日に停戦した。このため第3次中東戦争は「六日間戦争」とも呼ばれる。
イスラエルは、第3次中東戦争で、エジプトからシナイ半島とガザ地区を、ヨルダンから東イェルサレムを含むヨルダン川西岸を、そしてシリアからはゴラン高原を奪った。
エジプトのナセルは、6月8日に停戦を受諾し、翌9日には辞意を表明したが、国民の留任を求める声の前に10日に辞意を撤回し、敗戦処理にあたった。しかし、1970年9月に心臓発作に襲われて急死した。
ナセルの死後、サダト(1918〜81、任1970〜81)が大統領に就任した。
サダトは、ナセルらと自由将校団を創設し、エジプト革命(1952)に参加し、副大統領(任1969〜)などの要職を歴任し、ナセル大統領の急死の後を受けて大統領に就任した(1970.10)。
第3次中東戦争によって、さらに約20万人のパレスチナ難民(パレスチナ戦争で約100万人、スエズ戦争で約70万人のアラブ人がパレスチナ難民となった)がうまれた。
第3次中東戦争におけるアラブ諸国の惨敗は、パレスチナ人(パレスチナ難民)にパレスチナの解放は自らの手でという自覚を与え、以後パレスチナ解放闘争が活発に展開されることとなる。その中心となったのがパレスチナ解放機構(PLO)である。
PLOは、パレスチナ人(パレスチナ難民)がイスラエルに奪われた土地と権利の回復を目ざして1964年に結成した組織で、第3次中東戦争敗北後の1969年にはアラファトが議長となり、パレスチナ解放闘争を指導した。
アラファト(1929〜)は、イェルサレムに生まれ、パレスチナ戦争・スエズ戦争ではアラブ軍・エジプト軍に入って戦った。その後技師としてクウェートで働きながら「ファタハ」(征服の意味)を組織し、イスラエルに対するゲリラ活動を行った。そしてファタハのPLO参加にともない、1969年にPLOの議長となった。
アラファトは、以後、イスラエルとユダヤ人に対するゲリラ活動・テロなど過激な武装闘争を展開し、イスラエルとの対決姿勢を強めた。
PLOは、第4次中東戦争(1973)の翌年に開かれたアラブ首脳会議で「パレスチナの唯一の正統な代表」であることが承認され(1974.10)、アラファトは1974年11月に国連総会に出席して演説を行った。そして国連は「パレスチナ人の独立と主権を認める」・「PLOに国連のオブザーバーの資格を与える」という決議を採択した。
エジプトのサダト大統領(任1970〜81)は、ナセルとは異なる独自の路線を打ち出し、従来の親ソ政策からアメリカに接近する政策への転換をはかり、経済面でも自由経済を導入する「開放」政策を進めた。
サダトは、1970年にイスラエルに和平を提案したが拒否され、1971年には対イスラエル強硬派のシリア・リビアとアラブ共和国連邦を結成した。
1973年10月6日、エジプト・シリアはイスラエルに先制攻撃をかけ、第4次中東戦争が始まった。10月6日はユダヤ人にとって贖罪日(最も敬虔な祈りの日)にあたるので、第4次中東戦争は「贖罪日の戦争」、または「十月戦争」とも呼ばれる。
シナイ半島の奪回をはかるエジプトは先制攻撃によって当初は優勢を保ち、イスラエルの不敗神話をうち砕いた。しかし、アメリカの軍事援助を受けるイスラエルはすぐに態勢を立て直して反攻に出、イスラエル軍の一部はスエズ運河を渡り、エジプト軍の後方に出て運河西岸の一部を占拠した。またゴラン高原でもシリア軍を撃退し、ダマスクスに迫った。
10月22日、国連安保理が戦闘の停止を命令する決議を採択し、イスラエル・エジプト両国が受諾し、24日に停戦した。
この間、サウジアラビアなどアラブ石油輸出国機構(OAPEC、1968年結成)は、原油価格の75%引き上げと生産削減、さらにイスラエルに味方する国に対する禁輸を決定した(石油戦略)。この「石油戦略」の発動に続いて、石油輸出国機構(OPEC)も原油価格の230%値上げを決めたので、それまで1バレルあたり約3ドルであった原油価格は一挙に11.65ドルにはね上がった。
「石油戦略」をきっかけとする原油価格の値上がりは、エネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かし、世界経済に大きな衝撃を与えた(石油危機)。この第1次石油危機(オイル=ショック)によって世界経済は混乱し、深刻な不況に陥った。
日本でも、トイレット=ペーパー騒ぎに端を発し、便乗値上げも加わり、物価は急激に高騰し(狂乱物価)、一時的なパニック状態が生じ、翌1974年に日本は戦後初のマイナス成長を記録した。