1980年代の世界は、1970年代のドル=ショックと二度にわたるオイル=ショックによる景気の低迷と失業の増大、スタグフレーション(景気停滞下で物価が持続的に上昇していく状況)に悩まされ、各国はそれを克服する対応策を迫られた。
1980年代のアメリカはレーガン政権(1981.1〜89.1)下にあった。
レーガン(1911〜)は、アイルランド系移民の子孫としてイリノイ州に生まれ、大学卒業後、アナウンサー・映画俳優として活躍した後に政界に入り、カリフォルニア州知事を2期務めた(1967〜74)。1980年には共和党の大統領候補となり、現職のカーター(民主党)に圧勝し、1981年に第40代大統領(任1981〜89)に就任した。そして1984年には再選された。
レーガンは、対外的には「強いアメリカ」を掲げ、対ソ強硬路線をとり、軍備を拡大した。しかし、ソ連にゴルバチョフが登場して「ペレストロイカ」と新思考外交を打ち出すとこれを支持し、1987年にはソ連との間でINF全廃条約を調印するなど、軍縮交渉を通じて対ソ協調路線に転じた。
国内では、小さな政府を目ざして「レーガノミックス」と呼ばれる経済再建策を打ち出し、財政支出の削減・大幅減税・政府の規制緩和などを行った。しかし、その一方で軍事費の増額を行ったので財政赤字が拡大し、大幅な貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」に苦しんだ。こうした状況のなかでアメリカは1985年には71年ぶりに債務国に転落し、世界最大の債務国となった。
ヨーロッパでは、1967年に発足したECが1973年にはイギリス・アイルランド・デンマークの加盟によって拡大ECとなり、順調な発展をとげた。その後、ギリシア(1981)、スペイン・ポルトガル(1986)、さらにオーストリア・フィンランド・スウェーデン(1995)の加盟によって加盟国は15カ国となり、ほとんどのヨーロッパ諸国を含むこととなった。 EC加盟国は、1992年にマーストリヒト条約に調印し、1993年11月にはEU(ヨーロッパ連合)が正式に発足した。
1980年代の西ヨーロッパでは、イギリスのサッチャー政権(1979.5〜90.11)、フランスのミッテラン政権(1981.5〜95.5)、そして西ドイツのコール政権(1982.10〜98.10)と長期政権が続いた。この三人の首脳は相互に定期協議を行うなど密接な関係を維持しながらそれぞれの内政に取り組んだ。
イギリスでは、1979年5月の総選挙で保守党が圧勝し、サッチャー(1925〜、任1979〜90)がイギリス史上初の女性首相となった。
サッチャーは、「イギリス病」と呼ばれたイギリス経済の長期停滞状況を克服するために小さな政府を目ざして行財政改革に取り組んだ。
サッチャーは、「イギリス病」の原因は国有企業の非能率性、福祉大国と呼ばれた充実した社会保障制度を維持するための財政支出の増大、そして強力な労働組合によるストライキの頻発などにあると考え、それを克服するために国有企業の民営化や金融の自由化に取り組み、石油・製鉄・鉄道・通信・電力・ガス・水道などの民営化を実施した。また社会保障制度の見直し、財政支出の削減、公務員の削減などを断行し、「鉄の女」と呼ばれた。
対外的には、1982年4月にアルゼンチンがフォークランド諸島(1833年に英領となる)を占領すると、これに対して強硬な態度をとり、イギリス陸海軍を出動させてそれを奪回した(フォークランド紛争、1982年4〜6月)。その一方で、1984年12月には1997年に中国に香港を返還する合意文書に調印した。
サッチャーの改革は企業の倒産や失業者の増大(1982年には初めて300万人を突破した)を招き、また福祉の縮小は「弱者の切り捨て」と非難されたが、サッチャーは強い意志と指導力を持って改革に取り組んだので、1983年6月の総選挙に圧勝して再選された。さらに1987年6月の総選挙にも勝利して3選されたので、その在任期間は20世紀のイギリス首相としては最長となった。
しかし、1990年のいわゆる「人頭税」(世帯の人数に応じて課税する地方税)の導入に対しては激しい反対運動が起こり、またECの政治統合に反対を表明(1990)するなどECの完全統合に対する消極的な姿勢によって急速に党内外の支持を失い、1990年11月にサッチャーは辞任を表明した。そして1990年11月、メージャー保守党内閣(1990.11〜97.5)が成立した。
フランスでは、1981年5月の大統領選挙で社会党のミッテラン(1916〜96、任1981〜95)がジスカール=デスタンを破って当選し、第5共和政下では初の左翼連合政権が成立した。
ミッテランは、当初、企業の国有化など共産党との合意に基づく政策を実施したが、1984年以後は共産党と対立するようになった。
そして、1983年3月の総選挙では保守派が勝利し、共和国連合のシラク(1932〜、任1986〜88)が首相に就任したので、フランスでは保革共存政権が以後2年間にわたって続くこととなった。しかし、1988年5月の大統領選挙ではミッテランがシラクに大差を付けて再選されたので、シラクは首相を辞任した。
ミッテランは、外交面では西ドイツのコール首相とともにヨーロッパ統合の促進に努めたが、アメリカとは一定の距離を置く政策をとった。1992年8月には核拡散防止条約に加盟し、1992年9月にはマーストリヒト条約批准が、国民投票で僅差(賛成51.05%、反対49.95%)で承認された。
その後、1993年3月の総選挙では保守・中道が圧勝して第2次保革共存政権が発足し、1995年5月の大統領選挙でも保守派が勝利し、共和国連合のシラク(1932〜、任1995〜)が大統領に就任した。
ドイツでは、1982年10月にシュミットに対する建設的不信任案(ボン基本法では、連邦議会は過半数をもって連邦首相の後任者を選挙し、かつ連邦大統領に連邦首相を罷免すべきことを要請することによってのみ、連邦首相に対する不信任を表明することが出来ると定められている)が可決されてシュミットが退陣し、キリスト教民主同盟のコール(1930〜、任1982〜98)が首相に就任した。
コール内閣(1982.10〜98.10)は、キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟・自由民主党の連立内閣で、ドイツでは16年ぶりに保守・中道連立政権が成立した。
コールは、翌1983年の総選挙で大勝して政権を安定させ、以後16年間にわたって政権を担当し、戦後ドイツ首相としては最長の在任期間を記録した。
コールはヨーロッパの通貨統一・ユーロの導入に努め、1992年12月にマーストリヒト条約の批准を可決させた。
また東方外交を促進し、特に1989年11月のベルリンの壁崩壊後は東西ドイツの統一に奔走し、翌1990年10月には東西ドイツの統一を達成して統一ドイツの初代首相となった。
しかし、1998年9月の総選挙では社会民主党に大敗し、1998年10月には社会民主党のシュレーダー(1944〜)が首相(任1998〜)に就任した。
日本は、1960年代の高度経済成長によって経済大国へと発展をとげた。この間、年率10%を越える経済成長率が続き、世界の国民総生産に占める日本の割合は1955年の2.2%から1970年には6.0%となり、1980年には9.0%に高まった。
この間、1964年にはアジアで初のオリンピックを開催し、1968年の小笠原諸島の返還に続いて、1972年には沖縄も返還された。また同年9月には日中国交正常化が実現した。
しかし、1971年のドル=ショックと1973年以後の変動為替相場制への移行、さらに1973年のオイル=ショックによって日本経済は大打撃を受け、1974年には戦後初のマイナス成長を記録した。
オイル=ショックからいち早く立ち直った日本は、その後輸出の拡大によって貿易黒字が拡大し、1988年には外貨準備高が世界第1位となったが、その一方でアメリカなどとの間に貿易摩擦が起こった。
1980年代には、日本でも中曽根内閣(1982.11〜87.11)が戦後日本で第3番目の長期政権となり、レーガン政権と間に緊密な関係を築いた。