2 アフリカ・太平洋地域の分割

1 列強のアフリカ分割(その2)

 フランスは、七月革命の直前にアルジェリアに出兵し(1830.7)、その後直轄領として(1842)植民地化を進めた。さらにアルジェリアを確保するために19世紀後半以後チュニジアにも進出した。

 チュニジアにはイギリス・イタリアも進出をはかっていたが、1878年のベルリン会議ではフランスの優越が認められた。フランスは1881年に首都チュニスを占領し、チュニジアを保護国とした。

 その後フランスはサハラ砂漠に進出し、フランス領西アフリカ(1894年に領有)とフランス領コンゴを領有した。そしてアフリカ西海岸と紅海入り口の要港ジブチ(1888年フランス領)を結びつける大陸横断計画を立ててスーダンに進出した。これがフランスの横断政策(アフリカ横断政策)である。

 フランスの横断政策とイギリスの縦断政策はスーダンで衝突し、1898年にファショダ事件が起こった。

 フランスは横断政策を実現するために、マルシャン大尉(1863〜1934)を指揮官として原住民の兵士200人からなる探検隊をフランス領コンゴからスーダンに向けて出発させた(1896)。マルシャンは2年かかって1898年7月にナイル河畔のファショダに到着した。

 一方イギリスも再びスーダンへの進出をはかり、1896年にキッチナー将軍(1850〜1916、南ア戦争時のイギリス軍総司令官)をスーダンに派遣した。キッチナーは2万5千の軍隊を率いてナイル川をさかのぼり、マフディーの軍隊を撃破し、2年かかってハルツーム(ゴードンが戦死した地)に入城した。

 キッチナーはハルツームでマルシャン大尉がファショダに到着しているとの情報を得てファショダに急行し、マルシャンと会見して撤退を求めた。しかしマルシャンは応ぜず、問題の解決は本国政府間の交渉に移された。

 両国の世論は激昂し、英仏の関係は一触即発までいったが、結局フランスが譲歩政策をとってマルシャンに撤退を命じ、翌1899年に両国間で協定が成立した。この協定によってイギリスのスーダン進出が認められ、フランスはナイル川の通商権を得たにとどまり、イギリスの縦断政策が勝利した。

 その後イギリス・フランス両国は、ドイツの進出に対抗するために1904年に英仏協商を結び、エジプトにおけるイギリスの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に承認して妥協した。

 スーダンへの道を断たれたフランスはモロッコへ向かい、二度にわたるモロッコ事件を経て、1912年にモロッコを保護国とした。

 ドイツは、ビスマルクの方針により、1880年頃までは植民地経営に乗り出さなかったので、アフリカ分割に加わろうとしたときには列強による分割がほぼ終わっていた。

 ビスマルクはベルリン会議(1884〜85)を開いてアフリカ分割の原則を定めたが、かえってアフリカ分割競争を激化させることとなった。

 ドイツは西アフリカから東アフリカの分割に割り込み、赤道直下のカメルーン(1884)・ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ、1885)・西南アフリカ(1885)・トーゴランド(1884)を獲得した。

 さらに20世紀にはいるとヴィルヘルム2世のもとで植民地の拡大を目ざし、1905年と1911年の二度にわたってモロッコ事件を引き起こした。

 1904年の英仏協商でモロッコにおけるフランスの優越権が認められると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1905年3月、突然タンジール港に上陸し、フランスのモロッコ進出に反対を表明し、列国会議の開催を要求した。この第1次モロッコ事件(タンジール事件、1905)によってドイツ・フランス間に緊張が極度に高まり、開戦の危機が叫ばれた。

 翌1906年に開かれたアルヘシラス会議では、イギリスが強力にフランスを支持したのでドイツは譲歩し、モロッコはフランスとスペインの勢力範囲となった。

 その後もモロッコに対する野望を捨てきれないドイツは、1911年7月にフランスがベルベル人の抵抗を鎮圧するために出兵すると、アガディールに軍艦を派遣してフランスを威嚇し、ドイツ・フランス間に再び緊張が高まった(第2次モロッコ事件、アガディール事件、1911)。

 しかし、この時もイギリスが強力にフランスを支援したので、ドイツは独仏協定(1911.11)によってフランスのモロッコ保護権を認め、その代償としてフランス領コンゴの一部を獲得した。

 統一が遅れ、分割へ加わるのも遅れたイタリアはチュニジアをねらったが、フランスがこれを保護国とすると(1881)、翌1882年に紅海に面するエリトリアを植民地とすることを宣言して1885年に占領した。さらにソマリランドを保護領とし(1889)、エチオピアをねらった。

 イタリアは、1895年にエチオピアに侵入したが(第1回エチオピア戦争、1895〜96)アドワの戦いで大敗した(1896.3)。エチオピアはフランスから武器の援助を受け、ゲリラ戦でイタリアに勝利して独立を維持した。

 その後イタリアはフランスのモロッコにおける優越権を認める代償としてトリポリでの優越権を認められ、イタリア=トルコ戦争(1911〜12)でトリポリとキレナイカを占領し、1912年にリビア(トリポリ・キレナイカ)を併合した。

 ベルギー王レオポルド2世(位1865〜1909)はコンゴ国際協会(1876年に設立、1882年に改称)を設立し、コンゴ川流域にスタンリーを派遣して調査させ、コンゴ川流域を協会の保護下に置いた。

 ベルギー国王の私有地としてのコンゴ自由国(1885〜1908)はベルリン会議で認められ、レオポルド2世は鉱山開発などを進めたが、その統治が暴虐であるとの国際的な非難を受け、1908年には本国議会の管理下に置かれ、ベルギー領コンゴとなった。

 こうして20世紀の初めにはアフリカの9割以上が列強の支配下に置かれ、独立を保ったのはわずかにエチオピア帝国とリベリア共和国だけであった。

 リベリア共和国は、1821年にアメリカで解放された黒人奴隷の居住地としてアメリカ植民協会が開拓し、翌年から植民が開始された。1847年に独立を宣言し、アメリカ合衆国憲法にならって共和制を実施した。

 国名のLiberiaはliberty(自由)から付けられ、首都モンロヴィアはアメリカ合衆国第5代大統領モンローの名に因んでいる。




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