タイでは、戦後も軍部によるクーデターが頻発した。
1957年9月に、サリット元帥による軍部クーデターが起こり、ピブン(タイの軍人・政治家、首相・任1938〜44、48〜57)が失脚した。その後、1963年12月にはサリットの死去により、タノムが首相(任1958、1963〜1973)に就任した。
タノムは、1969年2月に総選挙を行って民政に移管したが、1971年10月のクーデターで再び軍政に復帰した。タノム政権はアメリカの援助によって工業化を進めたが、1972年には日本の経済侵略に対して日本製品不買運動が起こり、さらに翌1973年10月にはタノム政権の強圧的政治や腐敗に対する学生を中心とした反政府デモ・暴動が激しくなり、タノムは国外へ亡命した。
1974年10月には民主的な憲法が公布され、1975年1月には総選挙が行われて文民政権が続いた。しかし、1976年10月には学生を中心としてタノム元首相の強行帰国(9月に政府の拒否を無視して帰国)に反対する運動が激化した。こうした状況の中で、同月、軍部クーデターが起こり、タイの民主化は3年で崩壊し、再び軍事政権が成立した。
1980年3月にプレムが首相に就任し(任1980〜88)、8年以上の長期にわたって政権を担当し、民主化と経済発展に努めた。
1988年8月、プレムが辞任し、チャチャイが首相に就任し(任1988〜1990)、12年ぶりに文民政権が成立した。しかし、チャチャイは1991年2月に起こった軍部クーデターによって逮捕され、軍事政権が復活した。
マレーシアは、1963年にマラヤ連邦を中心にシンガポール・サバ・サラワクが連邦を構成してマレーシアとなったが、1965年8月にはシンガポールが分離独立した。
マレーシアは多民族複合国家で、マレー系(約65%)と経済の実権を握る中国系(約26%)そしてインド系(約8%)で構成され、人種間の融和が大きな課題になっている。
建国の父・ラーマン(1903〜75)が初代首相となったが、マレー系と中国系の大規模な対立・暴動(1969)の責任をとって1970年9月に辞任した。
以後、ラザク首相(任1970〜76)・フセイン=オン首相(任1976〜81)と続いた後、1981年7月にマハティール(1925〜、任1981〜)が4人目の首相に就任し、20年以上にわたって政権を担当している。
マハティールは国内ではマレー系優先政策を進めた。対外的には欧米中心の大国主義に批判的で、ASEAN(東南アジア諸国連合)重視の外交政策を展開し、特に日本や韓国の経済発展に学ぶ「ルック=イースト」政策(東方政策)を進めるなど積極的に経済発展に取り組み、工業化を進めている。
中国系が多数を占める(約77%)シンガポールは、マレーシアのマレー人優先政策に反発して1965年にマレーシアから分離独立した。
リー=クアンユー(1923〜、中国名・李光耀)は、シンガポール初代首相(任1965〜90)として25年間という長期にわたって政権を担当した。この間、リー=クアンユーは外資導入による工業化を積極的に推進し、シンガポールはNIES(ニーズ、新興工業経済地域)の一員として飛躍的な経済発展を達成した。
リー=クアンユーは1990年に退き、後継首相にはゴー=チョクトン(任1990〜)が就任した。
インドネシアでは、1965年の九・三〇事件でスカルノ体制が事実上崩壊し、翌1966年に実権を握ったスハルトは以後32年間にわたって政権を担当し、スハルト政権は異例の長期政権となった。
スハルト(1921〜、任1968〜98)は、1968年3月に正式に大統領に就任し、外交面ではスカルノ時代の親ソ・親中国政策を転換し、反共・親米政策をとった。
内政面では、アメリカ・日本など西側先進国から資本を導入し、積極的な経済発展をはかり、大型開発を進めて経済成長を実現した。しかし、1974年1月には反日デモ・暴動が起こり、以後は民族資本の育成にも努めた。1970年代の二度にわたる石油危機による原油価格の急騰はインドネシアに膨大な収入をもたらしたが、1980年代になると世界経済の停滞によりインドネシア経済も低迷した。
この間、1969年7月には西イリアン(1949年以来、その帰属をめぐってオランダと対立した)のインドネシア帰属を決定し、1975年11月に東チモール独立革命戦線が独立を宣言すると、翌1976年7月には東チモールを併合し、現地の抵抗運動を武力弾圧した。
スハルトは、1990年8月には中国と23年ぶりに国交を回復し、1998年3月には大統領に7選されたが、その前年の1997年7月以後のアジア金融・通貨危機の影響を受けてインドネシアも金融危機に見舞われた。
1998年に入ると、学生らは貧富の差の拡大、スハルト一族の特権や利権の独占、さらに華人政商との癒着による腐敗を批判し、スハルトの長期政権に対する抗議のデモや暴動が続いた。こうした状況の中で、1998年5月、スハルトは辞任を表明し、ハビビ副大統領が大統領に就任し、32年間にわたったスハルト政権はついに崩壊した。
フィリピンでは、マルコス(1917〜89、任1965〜86)が1965年11月に大統領に就任した。マルコスは親米政策をとり、アメリカの経済援助で工業化を進め、1969年には再選された。
しかし、国民生活の困窮・貧富の差の拡大などから反政府勢力が次第に広がり、1969年には新人民軍(フィリピン共産党の軍事組織)が結成され、1970年にはモロ民族解放戦線(フィリピン南部のミンダナオ・スルー諸島の分離独立を目ざすイスラム教徒の組織)が結成された。
マルコスは反政府運動を抑え、また大統領3選を禁止する憲法の改正をはかり、1972年9月に戒厳令を布告した。そして、戒厳令によってベニグノ=アキノら反マルコス派を逮捕し、1973年1月には新憲法の国民投票を延期して新憲法の発効を宣言した。
その後、マルコスは1981年1月に8年ぶりに戒厳令を解除し、同年6月に12年ぶりに行われた大統領選挙では圧倒的な支持を受けて3選されたが、独裁的な長期政権が続く中で政治腐敗が進んだ。
マルコスは、1986年2月に行われた繰上げ大統領選で4選を宣言したが、不正選挙に抗議し、マルコス大統領の辞任を要求する集会・デモが激化し、さらにエンリレ国防相やラモス参謀総長らの反乱が起きたため、マルコスは米軍ヘリでマラカニアン宮殿を脱出してハワイに亡命した。その後、マルコスは不正蓄財の容疑で起訴され、公判中にハワイで病没した(1989)。
1986年2月、コラソン=アキノが新大統領に就任し(任1986〜92)、アキノ政権が誕生した。
コラソン=アキノ(1933〜)は、マルコス政権の最大の政敵であった夫のベニグノ=アキノ(1923〜83)が亡命先のアメリカから帰国した際にマニラ空港でフィリピン国軍兵士によって射殺された(1983.8)後に、政界に入った。そして1986年の大統領選挙に野党統一候補として出馬し、マルコス陣営の不正選挙が非難される中で国軍の支持を得て新政権を樹立し、フィリピン初の女性大統領となった。
アキノ政権は、マルコス政権時代の独裁・腐敗政治からの脱却をはかり、マルコスの資産の没収・マルコス財閥の解体などに取り組んだ。また国営企業の民営化や共産ゲリラとの暫定停戦協定の締結など積極的な政策を進めたが、貧富の差の拡大や経済停滞を克服できず、十分な成果をあげることが出来なかった。
さらに、クーデター未遂事件の頻発や新人民軍とモロ民族解放戦線のゲリラが激化する中で、1992年1月に後継候補としてラモス元国防相を推薦して退陣を表明した。
1992年5月の大統領選挙ではラモス元国防相(1928〜)が当選して大統領に就任し(任1992〜98)、ラモスは国内諸勢力との和解に努めた。
大韓民国では、1961年のクーデターで軍・政権を掌握した朴正煕(パクチョンヒ、1917〜79)が1963年に民政に移行して大統領に就任した(任1963〜79)。
朴正煕は、米・日との関係強化をはかり、ヴェトナム戦争に派兵し(1965.2)、日韓基本条約に調印した(1965.6)。朴政権は日本からの経済協力による経済成長政策を推進し、韓国経済は急速な発展をとげた。「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれた驚異的な高度経済成長を達成した韓国はNIES(新興工業経済地域)の一員として世界から注目されるようになった。
その一方で、朴政権は反対派に対する厳しい弾圧を続けた。1972年10月には戒厳令を布告し、国会の解散を行って憲法改正を強行した。そして1972年12月には、いわゆる「維新憲法」を公布し、大統領の直接選挙制を廃止して間接選挙制を導入し、大統領の権限の強化と政権の長期化をはかった。
しかし、1973年8月の金大中(キムデジュン)拉致事件(東京のホテルから拉致)を契機として、反朴・民主化運動が激化した。1976年3月には民主勢力によって「朴大統領退陣を要求する民主救国宣言」が出され、以後各地で反体制運動・デモが続いた。
1979年10月、朴正煕は側近の金載圭・韓国中央情報部長に射殺され、18年間続いた朴政権は崩壊した。
朴正煕暗殺事件後、戒厳司令部・合同捜査本部長となった全斗煥(チョンドゥホアン、1931〜)が軍の実権を掌握し、1980年5月に韓国全土で民主化を要求する学生デモ・反政府デモが起こると、5月17日には戒厳令を発動した。
1980年5月18日、戒厳令が全土に拡大されると、光州市でも学生・市民による反政府デモが激化して機動隊と衝突した。光州市の反政府デモは21日には本格的暴動となり、戒厳軍とデモ隊の発砲事件に発展したが、27日には多数の死者を出して戒厳軍によって完全に制圧された(光州事件)。
光州事件の鎮圧後、国家保衛非常対策委員会の常任委員長に就任した全斗煥は、8月に統一主体国民会議で大統領に選出され、1980年9月に大統領に就任した(任1980〜88)。
全斗煥は、1980年10月に憲法を改正し、大統領の7年任期・間接選挙制を定めた。そして翌1981年2月に再選され、1982年には36年間続いた夜間外出禁止令を解除し、1984年9月には韓国の元首として初めて公式に訪日した。
全斗煥は、日米両国との提携を強化して経済の発展をはかり、高度経済成長を実現する一方で、非同盟諸国や社会主義諸国との関係改善にも努めた。しかし、ラングーン爆弾テロ事件(1983.10)や大韓航空機行方不明事件(1987.11、ビルマ上空で不明となる)などで北朝鮮との関係は緊迫した。
しかし、全斗煥は1987年6月以後高まった改憲を要求する反政府運動によって政治危機を迎え、7月に政権移譲を表明した。1987年10月には大統領選の直接選挙制を柱とする憲法改正が行われ、同年12月に行われた直接選挙制による大統領選挙では盧泰愚が大統領に選出された。
なお全斗煥は、親族が利権介入や不正によって逮捕されたことから全政権における政官界の不正・腐敗を非難し、全斗煥の逮捕を要求する運動が高まる中で、1988年11月には謝罪を表明し、全財産を国庫に返納して江原道の山寺に隠棲した(1988〜90)。その後、1995年には逮捕され、翌年反乱罪・内乱罪・収賄罪などに死刑判決を受けたが(97年の最高裁では無期懲役)、1997年には特赦となった。
1988年2月、盧泰愚(ノテウ、1932〜、任1988〜93)が大統領に就任した。
盧泰愚は、1987年6月に「六・二九民主化宣言」(大統領直接選挙のための改憲を認める譲歩案)を発表して政情混乱を収拾し、同年8月には民正党の総裁に選出された。そして1987年12月に、16年ぶりに行われた直接選挙制による大統領選挙で金泳三・金大中ら野党候補者を破って、韓国で初の平和的な政権交替を成しとげて翌年大統領に就任した。
盧泰愚は大統領に就任すると、1988年7月に「七・七宣言」(民族自尊と統一繁栄のための特別宣言)を発表して南北朝鮮の平和的統一への指針を示した。そして、1988年9〜10月にはソウル=オリンピックを開催し、国際的威信を高めた。
盧泰愚政権は、特に外交面で社会主義諸国との国交樹立に成果をあげた。1989年2月にハンガリーと国交を樹立したのをはじめとして東欧諸国・モンゴルと国交を樹立し、1990年9月にはソ連と国交を樹立し、翌1991年9月には朝鮮民主主義人民共和国と同時に国連に加盟した。
また1990年9月にはソウルで北朝鮮の首相と初の南北首脳会談を行った。さらに1992年8月に中国と国交を樹立し、9月には韓国元首としては初めて中国を訪問した。そして同年12月にはヴェトナムとも国交を樹立した。
しかし、国内では貿易収支の悪化や学生運動の激化そして労使紛争やストライキの激化に苦しんだ。そして1992年12月の大統領選挙では民自党の金泳三が当選し、32年ぶりに文民政権が成立することとなった。
なお、その後盧泰愚は1993年に不正・腐敗を追及され、1995年11月には収賄容疑で逮捕された。そして1996年8月には懲役22年の判決(高裁では懲役17年の判決)を受けたが、1997年12月には特赦となった。