アメリカでは、1989年1月に、レーガン政権のもとで副大統領を努め、前年の大統領選挙で勝利したジョージ=ブッシュ(1924〜)が第41代大統領(任1989〜93)に就任した。
ブッシュは、対外的にはゴルバチョフのペレストロイカを支持してソ連との協調を進め、1989年12月にはマルタ会談で冷戦終結を宣言するとともに軍縮への合意とソ連への経済支援を約した。
翌1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻し、8日には併合を宣言した(湾岸危機)。国連安保理はイラクの侵攻を非難し、即時・無条件撤退を要求し(2日)、経済制裁を発動した(6日)。
ブッシュもイラクのクウェート侵攻を強く非難し、イラクが国連の決議を無視すると、多国籍軍の結成を呼びかけた。そしてイラクが1991年1月15日までにクウェートから無条件で撤退しない場合は対イラク武力行使を容認するという国連安保理決議に従って、1991年1月17日にイラクに対する空爆を開始し、湾岸戦争(1991.1〜3)に突入した。
アメリカ軍を主力とする多国籍軍(約58万、28カ国で構成)はハイテク兵器による空爆によってイラクに大打撃を与え、2月24日には地上軍を投入してイラクを屈服させ、クウェートを解放した。
湾岸戦争は、2月28日にフセインがイラク軍に対して戦闘停止を命令して停戦し、3月3日にイラクが多国籍軍側の条件を全面的に受け入れて停戦が成立し、4月11日にイラクが国連安保理が採択した湾岸戦争の恒久停戦決議を受諾して正式に終結した。
1991年7月、ブッシュとゴルバチョフはSTARTT(戦略兵器削減条約)に調印するとともに、同年10月には中東和平会談(マドリード会談)を主導した。マドリード会談はイスラエル・アラブ諸国・PLOが初めて和平交渉に参加して一堂に会した点で意義があったが、イスラエルの占領地返還問題ではアラブ側とイスラエルの主張の対立が鮮明になった。
1991年12月にソ連が消滅すると、アメリカは唯一の超大国となった。しかし、国内では経済の悪化によって国民の不満が高まり、1992年11月の大統領選挙ではブッシュ大統領は民主党のクリントン候補に大差で敗れた。
1993年1月、クリントン(1946〜、任1993〜2001)が第42代大統領に就任し、カーター以来12年ぶりに民主党政権が成立した。
クリントンは、アメリカの世界での指導力を強調する一方で内政重視を公約に掲げた。
内政では、「小さな政府」を掲げて財政再建に取り組み、財政赤字削減とアメリカ産業界の国際競争力を強化するために国民に犠牲を求め、増税策を打ち出した。
対外的には、1993年4月のエリツィンとの会談で対ロシア緊急支援策を打ち出し、1994年1月のモスクワ宣言では、米ロは戦略的なパートナーであることを宣言した。
また1993年9月にはイスラエルとPLOとの和解を仲介し、9月13日にはイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長がホワイトハウスでパレスチナ暫定自治協定に調印し、両者の相互承認など歴史的な和解が実現した。
1993年11月にアメリカは北米自由貿易協定(NAFTA、1992年12月に調印)に批准し、NAFTAは翌年1月に発効し、巨大な単一経済圏が誕生した。
この間、アメリカ経済は回復に向かい、1991年からは10年に及ぶ戦後最長の景気拡大を続けた。特に1990年代後半にはIT産業の発展とともに「終わりなき繁栄」と呼ばれた好況が続き、株価は急騰した。
クリントンは1998年6月には、1989年の第2次天安門事件以後大統領としては初めて中国を訪問し、南アジアの核軍拡阻止など3つの共同声明を発表した。
しかし、1998年8月には不倫疑惑が発覚し、以後その対応に追われることとなった。
2000年11月の大統領選挙は、共和党のブッシュ・テキサス州知事と民主党のゴア副大統領との激しい争いとなり、ゴアが得票結果に異議を申し立てたが最後は連邦最高裁で決着がつく形となり、ブッシュの大統領就任が確定した。
2001年1月に第43代大統領に就任したジョージ=W=ブッシュ(1946〜、任2001〜)は、第41代大統領ブッシュの長男でアメリカ史上2組目の父子大統領となった(第2代と第6代のアダムズ大統領の例がある)。
2001年9月11日、世界中を震撼させた同時多発テロが勃発した。テロリストが民間航空機4機を乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルなどに激突し、3000人以上が死亡するという想像を絶する出来事であった。
2日後、ブッシュ大統領は同時多発テロを戦争行為と非難して報復を宣言し、米上下両院も武力行使容認の決議を採択した。さらに16日にはアルカイダのオサマ=ビンラディン(ウサマ=ビンラディン、1957〜)を最重要容疑者と名指し、アフガニスタンのタリバン政権にオサマ=ビンラディンの引き渡しを迫ったが、タリバン政権はこれを拒否した。
オサマ=ビンラディンは、サウジアラビアの大富豪の家に生まれ、1980年代初めにアフガニスタンに侵攻したソ連軍との戦いに義勇兵として参加して英雄となった。1991年の湾岸戦争を機に反米に転じ、アメリカ軍の進駐を認めたサウジアラビアを批判して後に国籍を剥奪され、一時はスーダンに亡命し、その後アフガニスタンのタリバーン政権の保護下にあった。
アルカイダ(基地の意味)は、オサマ=ビンラディンが1990年頃にアフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦ったアラブ人を中心に創設したイスラム原理主義組織で、ジハード(聖戦)の名の下にイスラム教徒過激派グループとともに、1998年にはケニア・タンザニアの米国大使館爆破テロ事件などを起こした。
2001年10月7日、米軍はアフガニスタン空爆を開始した。11月には北部同盟がカブールを制圧し、12月タリバン政権が崩壊する中で、22日には暫定行政機構が発足した。
同時多発テロ以来、「テロとの闘い」を掲げるブッシュ政権は、次の標的をイラクに定め、2002年1月の一般教書演説で、大量破壊兵器の保有を目ざすテロ支援国家としてイラク・イラン・北朝鮮の3国を「悪の枢軸」と呼んで非難した。
そして7月以後、1998年以来国連の査察を拒否するイラクに対する武力行使も辞さないとの強硬な態度を表明した。イラクは9月に査察受け入れを表明し、11月に国連安保理で対イラク決議が採択される中で、11月末から4年ぶりに査察が開始され、12月にイラク政府は国連査察団に申告書を提出した。今後、この申告書の内容によっては対イラク武力行使も予想され、イラク情勢は世界の注目を集めている。
なお、1990年代後半から好景気が続いていたアメリカでは、ITバブル(IT関連産業の発展による好景気)が崩壊し、2001年に入ってからは景気後退が始まっていた。そのため9月の同時多発テロはアメリカ経済のみならず、世界経済に深刻な影響を及ぼして世界同時不況の様相を呈しており、各国は不況脱出のための対策に苦しんでいる。
カナダは、イギリス系カナダ人(約38%)とフランス系カナダ人(約25%)が国民の多数を占め、英語とフランス語が公用語とされている国である。
フランス系住民が4分の3を占めるカナダ東部のケベック州では分離独立を求める動きがあった。ケベック州では、1994年9月の州議会選挙で独立派のケベック党が過半数を獲得し、翌1995年10月に分離独立の可否を問う州民投票が行われたが、反対派が僅差で(50.6%を獲得)勝利をおさめた。
2000年11月の総選挙では与党の自由党が勝利をおさめ、クレティエン首相(1934〜、任1993〜)が3期連続で政権を維持することとなった。
メキシコは、1920年以来クーデターがなく、中南米諸国の中では最も政情が安定した国である。2000年7月に行われた大統領選挙では国民党(PAN)のフォックス(1942〜、任2000〜)が勝利し、71年間にわたる制度的革命党(PRI)政権に終止符が打たれた。フォックスは経済の安定成長や所得格差の是正などの問題に取り組んでいる。
キューバでは、カストロ(1926〜、任1959〜)が国家元首・国家評議会議長・首相・共産党第一書記などを兼任し、全ての国家権力を掌握している。
キューバは、1992年7月に憲法を改正し、国会議員選挙での直接・秘密制や外資導入促進を定めた。そして翌1993年から社会主義市場経済に基づく経済開放政策に移行し、外貨所持の容認(7月)、個人営業の容認(9月)などを行った。さらに1995年9月には100%外資の企業設立を認める新外国投資法を制定するなど経済開放政策を推し進めている。
アルゼンチンでは、1989年5月の大統領選挙で当選したペロン党のメネム大統領(任1989〜99)がインフレ・金融危機の克服に取り組み、1995年5月に再選された(1994年の新憲法で大統領の任期が6年から4年に短縮され、再選が可能となった)。しかし、失業問題や汚職疑惑などによって支持率が低下し、1999年10月の大統領選挙では野党同盟候補が当選した。その後、2002年末には前年からの経済危機がますます深刻化した。
ブラジルでは、カルドーゾ大統領(任1995〜2002)がインフレの克服・経済危機の克服に取り組んだが、対外債務の増大から金融危機に陥り、国内では貧富の差の拡大や社会不安が高まった。そのため2002年11月に行われた大統領選挙では野党・労働党のルラ=ダ=シルバ(貧しくて中学にも行けず、労働者から政界に入り大統領候補者となった)が当選した。
ペルーでは、1990年6月の大統領選挙で初めて日系人のフジモリ(1938〜、任1990〜2000)が当選し、7月に大統領に就任した。
フジモリ大統領は腐敗追放と経済再建に取り組むとともに、麻薬根絶と極左テロ対策にも努め、対外的には対米関係の改善や日本・EC諸国との関係強化に努めた
1992年4月、フジモリ大統領は腐敗した議会が職務を妨害しているとして議会を解散し、憲法を停止するなど非常措置を発動した。そして1993年12月には国民投票で承認された大統領の連続再選やテロリストに対する死刑適用などを定めた新憲法に署名した。
1995年4月に再選されたフジモリ大統領は、さらに翌1996年8月に3選を可能にする新法を成立させた。
1996年12月、左翼ゲリラによる日本大使公邸人質事件が起こり、600人以上が人質となった。事件は長期化したが翌1997年4月に特殊部隊の強行突入によって71名の人質は無事解放されて(1名死亡)事件は終結した。
1997年7月にはリマでフジモリ大統領の独裁的政治手法に抗議する5000人のデモが起こり、翌1998年9月にはフジモリ大統領批判集会に集まった労働者ら約500人が大統領府敷地内に乱入するという事件が起こり、軍によって排除された。
2000年4月、フジモリ大統領は三選を果たしたが、11月17日に来日してそのまま滞在を続け、20日に大統領辞任を表明した。しかし、ペルー国会はフジモリ大統領の辞表受け取りを拒否して罷免を決定し、27日にはパニアグア大統領による暫定政権を発足させた。