4 最近の世界

1 欧米諸国(その2)

 1992年2月、EC加盟国12カ国は単一通貨による統合や共通の外交・安全保障に基づいた政治統合を目ざすマーストリヒト条約に調印した。

 フランスではマーストリヒト条約批准が国民投票で僅差(賛成51.05%、反対49.95%)で承認され(1992.6)、デンマークでは再国民投票で承認された(1993.5)。

 1993年1月1日、EC統合市場が発足し、12カ国・3億5000万人・GDP約6兆2000億ドルの世界最大の単一市場が出現した。そして同年11月にはマーストリヒト条約が発効し、EU(ヨーロッパ連合)が正式に発足した。

 1995年1月にはスウェーデン・フィンランド・オーストリアがEUに正式に加盟し、加盟国は15カ国となった。加盟国15カ国は1997年10月にマーストリヒト条約を大幅に改正した新EU条約(アムステルダム条約)に調印した。

 1999年1月、ユーロが誕生し、イギリスなど4カ国を除く11カ国に導入された。この時点ではユーロは銀行業務や金融取引に留まっていたが、2002年1月にはユーロ紙幣と硬貨の使用が始まった。

 2002年10月にはEU理事会で、ポーランド・ハンガリー・リトアニア・エストニア・ラトヴィア・チェコ・スロヴァキア・スロヴェニア・マルタ・キプロスの10カ国が2002年中に加盟交渉を終え、2004年に加盟を達成するとの方針が承認された。これが実現するとヨーロッパのほとんどの国が加盟することとなり、今後のEUのあり方に注目が集まっている。

 イギリスでは、1990年11月にサッチャーが辞任し、メージャー(1943〜、任1990〜97)保守党内閣が成立した。

 イギリスは、1990〜91年の湾岸危機・湾岸戦争では多国籍軍に約3万の軍隊を派遣してアメリカに協力した。また1993年8月にはマーストリヒト条約に批准した。

 メージャーは国内では北アイルランド紛争の解決に取り組んだ。
 1993年12月、メージャーはIRA(アイルランド共和国軍)にテロ放棄を迫り、全当事者参加の平和解決を目ざす北アイルランド和平共同宣言に署名した。翌1994年8月末にIRAは無条件・無期限の停戦を9月から実施すると発表した。しかし、1996年2月にIRAは停戦破棄を声明し、ロンドンで爆弾テロを行い、停戦がくずれた。

 1996年6月、北アイルランド紛争の解決をはかる北アイルランド全党和平協議(円卓会議)が開かれたが、シン=フェイン党(IRAの政治組織)の参加は拒否され、紛争の解決は長引いた。

 メージャー内閣はインフレの克服と高い失業率の低下に取り組んだが成果が上がらず、1997年5月の総選挙では労働党が圧勝した。18年ぶりに労働党が政権を握り、ブレア(1953〜、任1997〜)労働党内閣が成立した。

 ブレアは、従来の労働党の高福祉高負担の弊害を改め、その一方で市場経済の欠陥を補い、自由主義経済と伝統的な社会主義を調和させる「第三の道」を打ち出し、政治・経済・福祉・教育の改革に取り組んでいる。

 また北アイルランド紛争の解決にも努め、1997年10月にはシン=フェイン党の党首と76年ぶりに直接会談を行い、1998年4月には関係諸政党による和平合意が成立して和解に向かい、シン=フェイン党も和平案を承認した(5月、強硬派は離脱)。しかし、8月には北アイルランドで爆弾テロがあり、紛争史上最悪の惨事となった。そして1999年に入ってもプロテスタント系住民とカトリック系住民の衝突が頻発したが、1999年12月には、北アイルランド自治政府がイギリス議会から権限移譲を受け、27年ぶりとなる自治政府が正式に発足した。しかし、まだ北アイルランド紛争の完全解決には多くの問題が残っている。

 2001年6月の総選挙でも労働党が大勝し、第2次ブレア内閣が成立した。第2次ブレア内閣は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件以後アメリカとともにテロとの闘いに積極的に取り組み、国内ではユーロ参加問題などに取り組んでいる。

 なお、2002年はエリザベス女王戴冠50周年の年にあたり、各種の催しが実施された。

 フランスでは、1995年5月の大統領決選投票で保守派・共和国連合のシラク(1932〜、任1995〜)が社会党のジョスパンを破り、第5共和政で5人目の大統領に選出され、14年ぶりに保守・中道の大統領が誕生した。

 シラクは大統領就任から間もない1995年9月に南太平洋のムルロア環礁で4年ぶりに核実験を強行し(1996.1までに計6回実施)、世界中から非難を浴びた。

 1997年6月の総選挙では左翼連合が勝利し、首相に社会党のジョスパン(任1997〜2002)が任命され、第3次保革共存政権が続くこととなった。

 シラクは急増する失業者問題を解決するために、労働時間を週39時間から35時間に短縮する法案を提出し、法案は1998年5月に下院で可決された。また1999年3月にはアムステルダム条約(1997年調印)を批准した。

 2002年4月に行われた大統領選挙第1回投票では、シラク大統領が第1位となったが、極右のFN(国民戦線)のル=ペン党首が第2位となり、両者の決選投票となった。なお第3位となったジョスパン首相は選挙後引退した。

 5月に行われた第2回投票では、右派だけでなく、左派勢力もシラク支持に回り、極右勢力との対決姿勢を明らかにし、シラクが約82%の得票数を獲得して再選を決めた。翌6月に行われた総選挙では右派が圧勝し、保革共存政権が解消された。

 ドイツでは、東西ドイツの統一(1990.10)後に初代首相となったコールが1994年11月に5選を果たした。しかし、内政面では戦後最高の失業率を記録し、1998年9月の総選挙ではシュレーダーが率いる社会民主党に大敗し、16年ぶりに政権交替が行われた。

 シュレーダー(1944〜、任1998〜)は、1998年10月に首相に就任し、「新中道路線」を掲げて財政再建や税制改革・年金改革に取り組んでいるが、景気低迷や失業率の上昇など困難な状況に直面している。

 こうした状況の中で行われた2002年9月の総選挙では、直前の洪水対策や対イラク問題での指導力が評価され、社会民主党はかろうじて第1党の地位を維持し、第2次シュレーダー政権が成立したが、対イラク問題への対応や財政赤字の削減・失業者対策の問題が緊急の課題となっている。

 ポーランドでは、1995年11月の大統領選挙で旧共産党系のクワシニエフスキ(任1995〜)がワレサ前大統領(任1990〜95)を小差で破り、大統領に当選し、2000年10月の大統領選挙では圧勝して再選された。

 ポーランドは1999年3月にハンガリー・チェコとともにNATOに正式に加盟し、現在は2004年にEUの加盟国となることが最大の課題となっている。

 ユーゴスラヴィアでは、1992年3月にボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国のムスリム(イスラム教徒)とクロアティア人が独立の是非を問う国民投票を実施し(セルビア人は投票をボイコットした)、99%以上が賛成して独立を宣言した。

 1992年4月、EC諸国に続いてアメリカがボスニア=ヘルツェゴヴィナの独立を承認すると、共和国内ですでに独自の共和国樹立を宣言していたセルビア人とムスリム(イスラム教徒)・クロアティア人の戦闘が激化し、ボスニア内戦(ボスニア紛争、1992.4〜95.12)が始まった。

 ボスニア内戦は、新ユーゴスラヴィア連邦(セルビアとモンテネグロで構成)に支援されたセルビア人(約33%)と、クロアティアに支援されたクロアティア人(約17%)・イスラム諸国に支援されたムスリムとの闘いの構図となり、EU諸国とアメリカはクロアティア・ムスリム側を支持した。

 1992年5月、国際連合はクロアチア・スロヴェニア・ボスニア=ヘルツェゴヴィナの正式加盟を承認した。同月、国連安保理はセルビア人を支援するユーゴスラヴィア連邦(セルビア・モンテネグロ)に対する石油などの全面禁輸を含む経済制裁を決議し、翌6月にはボスニアの人道援助支援などのために国連保護軍の派遣を決議した。

 国連安保理は、1993年6月にはサライェヴォなどをセルビア人勢力から守るために国連保護軍とアメリカ軍などの武力行使を容認する決議を採択し、NATO軍は1995年5月以後、国連の要請によりボスニアのセルビア人勢力の拠点に空爆を行った。

 1995年10月、全土に60日間の停戦が発効し、同年12月14日にボスニア和平協定がパリで調印された。この和平協定によってボスニア=ヘルツェゴヴィナの領土は2分され、ボスニア=ヘルツェゴヴィナはムスリム・クロアティア人のボスニア連邦とセルビア人共和国で構成されることとなった。

 こうして3年半以上にわたったボスニア内戦は、3民族の激しい戦闘やセルビア人武装勢力による民族浄化政策(強制収容や大量虐殺)などによって25万人の犠牲者と280万人の難民を出して終わった。

 この間、ユーゴスラヴィア連邦のセルビア共和国ではミロシェヴィッチ(1941〜、任1989〜97・セルビア大統領、1997〜2000・ユーゴ連邦大統領)が政権を掌握していた。

 ミロシェヴィッチはセルビア民族主義を掲げ、コソヴォ問題に対する強硬政策によってセルビア人の支持を獲得した。

 コソヴォは、中世のセルビア王国の中心地であり、コソヴォの戦い(1389)でオスマン=トルコ帝国に壊滅的な敗北を喫した地でもあり、セルビア人にとっては聖地であった。

 ミロシェヴィッチは、コソヴォの戦いからちょうど600年目にあたる1989年に「コソヴォの地は明け渡さない」と述べ、セルビア系住民(コソヴォ自治州の住民の約1割を占める)の熱狂的な支持を受け、コソヴォの自治権を縮小するとともにアルバニア人(コソヴォ自治州の住民の約9割を占める)の公職追放・高等教育でのアルバニア語の授業の停止などの差別政策を実施した。

 1998年2月、ついに武力によるコソヴォの独立を唱えるアルバニア系武装組織であるコソヴォ解放軍とユーゴ軍・治安部隊との間で武力衝突が始まった。ユーゴが1999年3月の和平合意案を拒否したため、同月NATO軍によるユーゴ空爆が開始された。

 1999年6月、ユーゴは和平案を受け入れ、ユーゴ軍はコソヴォから撤退した。その後、コソヴォでは国連コソヴォ暫定行政支援団のもとで復興が続けられている。

 2000年9月、ミロシェヴィッチ政権が崩壊し、ミロシェヴィッチは翌2001年4月に逮捕され(ミロシェヴィッチは1999年5月に人道に対する罪で起訴されていた)、6月に旧ユーゴ国際刑事裁判所に引き渡された。

 ロシアは、1991年12月のソ連の消滅とともに国名をロシア共和国からロシア連邦に変更し、翌1992年3月には連邦条約を調印して21共和国・1自治州からなるロシア連邦が成立した。

 ロシア連邦のエリツィン大統領(1931〜、任1991〜99)は、1992年6月には訪米し、ブッシュ大統領と戦略核の削減や武力不行使で合意し、翌1993年1月にはSTARTU(第2次戦略兵器削減条約)に調印した。

 1993年9月、エリツィンは大統領令を発し、反連邦派の拠点となっている最高会議と人民代議員大会の解散を発表した。これに対して保守派を中心とする最高会議は大統領の解任を要求した。同年10月、反大統領派市民約2万人と内務省部隊との大規模な衝突が起こった。非常事態宣言が出されて軍が出動し、議会派が立てこもる最高会議ビルを攻撃して武力制圧し、議会側は降伏した。

 しかし、同年12月に行われた新議会選挙では大統領派は大敗北に終わり、民族主義的な極右のロシア自由民主党が大躍進し、共産党も善戦した。

 1994年1月、米ロ両首脳はモスクワ宣言で両国は戦略的パートナーであると宣言した。

 同年8月頃から始まったロシアからの独立を目ざすチェチェン共和国との紛争は、12月には内戦に発展した。エリツィンは本格的な軍事介入に踏みきり、ロシア軍がチェチェンに侵攻した(第1次チェチェン戦争、1994.12〜96.8)。

 チェチェンに侵攻したロシア軍は、1995年3月にはチェチェンの首都グロズヌイ全域を制圧した。同年6月停戦合意がなされたが、7月には停戦合意がくずれ、各地で戦闘が続いた。1996年1月にロシア軍はチェチェン武装集団が立てこもるダゲスタン共和国の村に総攻撃を行い、同年8月には無期限停戦とロシア軍の段階的撤退で合意し(チェチェン停戦合意)、9月以後グロズヌイからの撤退を開始した。

 この間、エリツィンは心臓病で1ヶ月静養し(1995.8)、1995年12月の下院選挙では共産党が第1党に躍進したが、1996年6〜7月の大統領選挙では再選された。

 1998年には全閣僚を解任したり(1998年3月・8月)、1999年には首相を解任するなど(1999年5月・8月)独裁的な傾向が強まった。また1999年9月にはチェチェンへの空爆を開始して第2次チェチェン戦争が始まり、健康状態も懸念される中で1999年12月には大統領代行にプーチンを任命して任期満了前に辞任した。

 大統領代行に任命されたプーチン(1952〜、任1999〜)は、翌2000年5月に正式にロシア連邦第2代大統領に就任した。

 プーチン大統領は、「強い国家」の建設を目ざして政治的安定の確保に努め、特に中央政府と対立してきた共産党を中心とする議会勢力の影響力を弱めるなど、最近のロシアでは最も安定した政治状況を作り出している。

 対外的にはアメリカとの協力・協調を進めた。特に2001年9月の同時多発テロ事件以後のテロとの戦い・アフガニスタン問題にもこの姿勢が現われている。

 しかし国内では、ロシアの経済状況は依然として多くの問題を抱え、また2002年10月に起こったチェチェン武装勢力によるモスクワの劇場占拠事件に見られるようにチェチェン問題の解決はプーチン政権にとって最大の課題となっている。




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