2 南アジア・東南アジアの植民地化

1 イギリスのインド支配

 1757年にプラッシーの戦いで、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破したイギリス東インド会社軍は、同じ頃南インドでも3回にわたるカーナティック(カルナータカ)戦争(1744〜63)でもフランスを破って支配領域を広げていった。

 プラッシーの戦いで活躍したクライブ(1725〜74)は、翌1758年に初代ベンガル知事となり、イギリスのベンガル支配確立に努めたが1760年には帰国し、男爵の称号を贈られた。

 その後、ムガル皇帝とベンガル太守が反抗すると、イギリスはこれを制圧し(1764)、翌年クライブを再度ベンガル知事に任命した(任1765〜67)。その直後にイギリス東インド会社はムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの一部を含む広範な地域の地租徴収権と裁判権を獲得した。

 こうしてイギリス東インド会社は、ベンガル地方を中心に広大な会社領を領有し、住民から地租を徴収し、イギリス兵と現地で採用したインド人傭兵(シパーヒー)で編成した軍隊でこれらの地域を支配するようになり、対インド貿易という商業活動を目的として設立された東インド会社は植民地の統治を兼ねた政治機関に変わってきた。

 そのためイギリスは1773年にインド統治法を制定し、ベンガル知事にかわってベンガル総督を設置し、ヘースティングズ(1732〜1818)が初代ベンガル総督に就任した。

 こうしたイギリス勢力の進出に対して頑強に抵抗したのが南インドのマイソール王国である。当時のマイソール王国には英主ハイダル=アーリー(位1761〜82)とティプ=スルターン(位1782〜99)が出て、4回にわたるマイソール戦争(1767〜69、1780〜84、1790〜92、1799)でイギリスと死闘を繰り広げたが、イギリスはこれに勝って南インドを支配下に治めた。

 また中部インドには好戦的なヒンドゥー系マラータ族の諸侯がマラータ同盟と呼ばれる封建的な連合体を形成して反ムガル・反イギリスの立場をとっていた。マイソール戦争に勝って勢いに乗るイギリスは、3回にわたるマラータ戦争(1775〜82、1802〜05、1817〜18)でマラータ同盟を崩壊させ、中部インドを支配下に治めた。

 さらにイギリスは第1次アフガン戦争(1838〜42)以来、西北インドに進出をはかり、パンジャーブ地方のシク教徒を2回にわたるシク戦争(1845〜46、1848〜49)で破り、西北インドを支配下に治めるとともにほぼインド全域に領土を広げた。

 イギリスはインド支配を進める中で財源の確保をはかるために18世紀末から19世紀初めにかけて新しい地税制度を導入し、ベンガル地方を中心とする北インドではザミンダーリー制と呼ばれる地税制度を実施した。

 ザミンダーリー制は、イギリスがザミンダール(旧来の地主・領主層の呼称)の土地所有権を認め、彼らを地税納入の直接責任者とした制度である。これによって農民からの徴税が確実になり、東インド会社の税収は飛躍的に増大したが、地主支配が強化され、農民はサミンダールの収奪に苦しめられることになる。

 南インドではライヤット(農民のこと)に土地所有権と同時に納税責任を負わせるライヤットワーリー制が実施された。

 この間、イギリス本国では産業革命が進展して産業資本家が台頭すると、彼らは東インド会社によるインド貿易の独占に強く反対するようになり、1813年に東インド会社の茶以外のインド貿易独占権が廃止された。

 さらに1833年には東インド会社のインドに対する商業活動が全面的に禁止され、東インド会社はインド統治権だけを持つこととなり、完全にインド統治機関となった。またベンガル総督はインド総督と改称された。

 19世紀に入ると、イギリス製の安価な機械織りの綿布がインドに輸出されるようになり、1820年頃にはインド産の綿織物との地位が逆転した。以後イギリス綿織物のインドへの輸出は急激に増加し、19世紀中頃にはインドはイギリスが輸出する綿織物の4分の1を輸入するようになり、インドの伝統的な手織りの綿布産業は壊滅的な大打撃を受けた。

 こうしてこれまではイギリスに綿織物を輸出していたインドがイギリスの工業製品の販売市場・原料供給地に転落し、綿花・藍・ジュート・茶・アヘンなどの輸出作物の栽培を強制されるようになった。

 イギリスは、英語教育の実施・イギリス的司法制度の導入・近代的な地租制度の採用・道路網の整備・鉄道の敷設などある意味ではインドの近代化を進めたが、これらはいずれもインドの植民地化を進めるための政策だった。

 イギリス人はインドを遅れた社会と考え、これらを文明化することが使命であると考え、カースト制や不可触選民の惨状・幼児婚・寡婦の殉死と再婚禁止の風習・インド女性の地位の低さなどインドの「憂うべき」インド問題をなくするためにはインド人の道徳・習慣・思考法をヨーロッパ流に変えていかなければならないと考えた。

 しかし、このためにインドの伝統的な社会慣習や生活基盤が破壊され、インドの自給自足的な村落社会は崩壊した。そのため支配者の地位を追われた王侯貴族から、職を失った手工業者・重税の取り立てに苦しむ農民に至る広い階層にまたがるインド人の間にイギリスに対する不満と反感が広まっていった。




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