2 南アジア・東南アジアの植民地化

2 インド大反乱とインド帝国の成立

 イギリスによるインド支配が進むにつれてインドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まった。こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が起こった。

 シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵のことで、イギリス東インド会社は彼らを低賃金・低待遇で雇い、インド支配の道具とした。しかし反乱は兵士だけのものではなかったので、近年はインド大反乱と呼ばれている。

 1857年はプラッシーの戦いから100周年に当たる年で、宗教的指導者の中にはイギリス滅亡の年であると予言する者もあり、インドは異常な熱気につつまれていた。

 1857年5月10日、デリー北方のメーラトのシパーヒー部隊が反乱を起こした。反乱のきっかけとなったのは、東インド会社が新たに採用したエンフィールド銃であった。この銃は弾丸を込める際に上質の紙で出来た弾薬包の端を口でかみ切る必要があったが、その弾薬包には銃身での摩擦を少なくするために牛と豚の油脂が塗られていた。

 牛はヒンドゥー教徒にとっては神聖な動物であり、豚はイスラム教徒にとっては不浄とされた動物であった。このためシパーヒーはこの銃の受け取りと使用を拒否した。

 このような出来事はすでに2月頃から各地の部隊で起きていたので、イギリスは弾薬包を手で破るように改めていた。しかし4月末にメーラトのシパーヒー連隊で90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否し、軍法会議で10年間の強制労働の刑に処せられ、5月9日に85人が投獄された。反乱が起こったのはその翌日であった。

 1857年5月10日、メーラトのシパーヒー部隊が蜂起し、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆とともに教会・兵営・住宅などを襲い、イギリス人を殺害してその財産を奪い、自分たちの仲間が拘留されている監獄を襲って抑留者を解放した。そしてシパーヒーはその夜のうちにデリーに向けて進撃した。

 翌日反乱軍がデリーに到着すると、デリーのシパーヒーや市民も反乱に加わり、反乱軍はたちまちこの町を占領した。そしてムガル皇帝バハードゥル=シャー2世(位1837〜58)を擁立し、有名無実になっていたムガル皇帝の統治復活を宣言した。

 ムガル皇帝の名でインド各地に反乱を呼びかける檄文が送られると、たちまち各地で反乱が起こり、北インド全域に及ぶ大反乱となり、イギリスのインド支配は崩壊するかにみえた。

 この反乱には、イギリス支配に不満を持つ旧支配層や近代的な地租制度によって没落した地主・土地を失った農民・綿織物工業の没落で職を失った職人など広範な階層の人々が加わった。しかし、反乱軍には統一された組織がなく、まとまった目標もなかったので、イギリスが態勢を立て直し、多くの藩王(地方の王侯)を味方につけて反撃に転じると反乱は個別に撃破され、鎮圧されていった。

 デリーは、1857年9月に陥落し、ムガル皇帝は捕虜となり、その息子たちは処刑された。翌1858年3月にもう一つの反乱の拠点であったラクナウも陥落し、8月にはムガル皇帝は廃位されてビルマに追放され、300年以上続いたムガル帝国(1526〜1858)はついに滅亡した。

 1858年8月、東インド会社はシパーヒーの反乱を招いた責任から解散させられ、11月のヴィクトリア女王宣言によってインドは本国政府の直接統治下に置かれることとなった。

 デリー・ラクナウなどの拠点を失った後も、インド人は各地でゲリラ戦を展開したが、1859年4月には頑強に抵抗してきたアウドの反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインド大反乱はほぼ完全に鎮圧されてしまった。

 イギリスはすでに反乱中の1858年にインドを本国政府の直接統治下に置いていたが、1877年にはインド帝国(1877〜1947)の成立が宣言され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねた。

 インド帝国は直轄領と大小500を越える藩王国(イギリスの支配下で旧地方王侯に内政権を与えて藩王国とした)とから成り、以後イギリスはこれら保守的な藩王国を保護しつつ、巧妙な分割統治によってインドの植民地経営を行った。




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