2 南アジア・東南アジアの植民地化

3 東南アジア諸島部の植民地化

 オランダは、17世紀以来、ジャワ島のバタヴィアを拠点として香料貿易を独占し、18世紀中頃にはマタラム王国(16世紀末〜1755)を滅ぼしてジャワ島の大部分を領有した。

 しかし、18世紀末にオランダ本国がナポレオンに征服されるとオランダ東インド会社は解散され(1799)、ジャワ島はオランダ本国の直轄領となった。ナポレオン戦争中にイギリスはジャワ島を占領したが(1811〜14)、ナポレオンの没落によって元に戻った(実際の返還は1816年)。

 復帰後のオランダの植民地支配に対してジャワ戦争(1825〜30)と呼ばれる反乱が起こったが鎮圧された。しかし、オランダはその鎮圧に莫大な出費を強いられ東インド政庁は財政難に陥った。

 そのためオランダは、経営の危機を乗り切るためにファン=デン=ボス(1780〜1844、任1830〜33)を東インド総督に任命し、ファン=デン=ボスは東インド政庁の財政難を克服するために1830年に強制栽培制度を導入した。

 強制栽培制度はオランダ領ジャワで行われた経済政策で、ジャワの原住民に彼らの米作地の5分の1を出させ、そこでコーヒー・さとうきび・藍などのヨーロッパ向けの商品作物を栽培させ、作物を安価に買い上げるやり方で、オランダはこれによって莫大な利益をあげた。

 この強制栽培制度によってオランダ東インド政庁やオランダ本国の財政難は救われたが、ジャワの原住民は労働力を奪われ、米不足による米価高騰に悩まされた。また飢饉も続発したので強制栽培制度は1870年にコーヒーを除いて廃止された。

 オランダは19世紀末までに、現在のインドネシアのほぼ全域に支配を拡大していった。これに対してアチェー王国(16世紀初〜1904、スマトラ北西部のイスラム王国)は激しく抵抗し、アチェー戦争(1873〜1904)が起こったが、オランダはこれに勝ってアチェー王国を滅ぼし、これをオランダ領東インドに編入した(オランダ領東インドの成立、1904)。

 スペインは、16世紀後半にマニラを建設し、フィリピン経営の根拠地とし、17世紀前半までにほぼフィリピン諸島を支配下においた。この間、スペインはイスラム化したミンダナオ島など南部を除くフィリピンの大部分をカトリックに改宗させるとともに、中国の絹織物・陶磁器などをメキシコに輸出して新大陸の銀と交換する中継貿易で大きな利益をあげた。

 18世紀後半頃から、さとうきび・マニラ麻・たばこなどの商品作物の栽培を中心とするフィリピンの経済開発が進められ、それとともに大土地所有制が進展した。

 イギリスは、18世紀後半からマライ半島に進出するようになった。1786年にペナン島を占領してイギリス領とし、1824年にはシンガポールとマラッカをイギリス領とした。

 シンガポール獲得に大きな役割を果たしたのがラッフルズ(1781〜1826)である。彼は1819年にマライ半島南端にあるシンガポール島に上陸し、港としての価値に着目し、ジョホール王から買収して新しい港の建設に努めた。

 イギリスは1826年にペナン・マラッカ・シンガポールの3地域をまとめて海峡植民地とし、1867年からは直轄植民地とした。

 イギリスは海峡植民地の形成以後、錫資源を求めて半島内部にも進出し、1895年に海峡植民地と半島南部を併せてマライ連邦とし、イギリスの保護領(植民地)とした。

 マライ連邦では、20世紀にはいるとゴムの栽培が盛んとなった。ゴムは19世紀に実用化された電気の絶縁体として、また自動車や航空機のタイヤに利用されるようになって急激に需要が高まっていた。マライ連邦ではゴムのプランテーション経営が急激に増大し、ゴムの世界的な生産地となっていった。 




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