3 東アジアの激動

1 アヘン戦争

 康煕・雍正・乾隆の3代130余年(1661〜1795)に最盛期を迎えた清朝も乾隆帝(位1735〜95)の晩年には政治の綱紀も乱れ、白蓮教徒の乱などがおこり、衰退のきざしが見えてきた。

 白蓮教徒の乱(1796〜1804)は、弥勒下生(みろくげしょう)信仰(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)の秘密結社を中心とする農民反乱で、湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省に広がった。反乱は9年に及び、清朝はやっと鎮圧したが、その鎮圧には清の正規軍よりも民間の義勇軍である郷勇が活躍した。ここにも清朝の衰退ぶりが現れている。

 その頃から清朝を悩ませたもう一つの大問題がアヘンの問題であった。
 アヘンはケシの未熟な果実の外皮を傷つけ、分泌する乳液を採取して乾燥させて作る麻薬であるが、中国では薬用としても知られ、康煕帝は薬用アヘンの輸入を認めていた。特に台湾ではマラリアの特効薬として用いられていたので、オランダ人によって台湾から中国に伝わると、タバコのように吸飲する風習が広まった。

 アヘンを吸飲すると幻想的な恍惚状態に陥り、現世の憂さや苦しみを忘れさせてくれる。しかし、一度吸い始めるとやめることは難しく、やがて常習の吸飲者となりアヘン中毒となり、頭痛・めまいに始まり、最後は精神に異常をきたし、廃疾者になる。また禁断症状が激しく、ひとたびアヘンがきれるともだえ苦しんでのたうちまわる恐ろしい麻薬である。

 18世紀に華南でアヘン吸飲者の数が増えると、密売人の活動が活発となり、アヘンの密貿易が盛んとなった。特にイギリス商人によるインド産アヘンの密輸入が急増した。そのため、それまでほぼ華南に限られていたアヘンの吸飲がたちまち華中から華北に及び、全国的に流行するようになった。またそれまでの下層民から上流階級の人々にも広まっていった。

 清は、乾隆帝時代の1757年以後、外国貿易を広州一港に限定した。
 この頃、広州での対中国貿易をほぼ独占していたのがイギリスであった。当時のイギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、ティータイムが一般化し、茶の需要が激増していたので、イギリス東インド会社は大量の茶を中国から輸入した。そして毛織物やインド産の綿織物を輸出したがその額はわずかであったので、対中国貿易はイギリスの大幅な輸入超過となり、イギリスはその差額を大量の銀で支払っていた。

 そこで東インド会社は、このような不利な対中国貿易を打開するためにアヘンに目をつけた。東インド会社はインドの農民にケシを栽培させてアヘンを作り、これを中国に密輸するアヘン貿易に進出するようになった(1773)。

 以後イギリスは、中国の茶をイギリス本国へ、イギリス本国の綿織物をインドへ、インド産のアヘンを中国へ運ぶ三角貿易を行い、中国でのアヘンの流行・アヘン輸入額の増大とともに莫大な利益をあげるようになった。

 この間、イギリス本国では産業革命の進展にともない、自由貿易を求める気運が高まり、清朝の貿易港を広州一港に限定し、それを公行(広州での外国貿易を独占していた特許商人の組合、広東十三行と通称される)が独占する極端な制限貿易に対する不満が強まった。

 そこでイギリスは、18世紀末にマカートニーを、19世紀初めにはアマーストを中国に派遣して、その撤廃を交渉させたが不成功に終わった。

 マカートニー(1737〜1806)は、イギリスの全権大使として1792〜94年に中国に派遣された。1793年に熱河で避暑中の乾隆帝に謁見を求めた。その際、「三跪九叩頭」(3回ひざまずき、その都度地につくまで頭を下げ、計9回頭を下げる皇帝に対面するときの中国の儀礼の一つ)を要求された。 マカートニーはこれを拒み、結局片膝をついて皇帝の手に接吻するという妥協案で決着したが、貿易上の制限の撤廃・貿易港の拡大・対等な国交の樹立などの要求はすべて拒否された。

 アマースト(1773〜1875)は、マカートニーの後を受けて対中国貿易の改善を求める全権大使として1816年に北京で嘉慶帝(位1796〜1820)に謁見を求めた。しかし、「三跪九叩頭」の礼を要求され、これを拒否したために退去させられた。

 こうした状況の中で、イギリス本国では1834年に東インド会社の対中国貿易独占権が廃止されたので、イギリス商人は誰でも自由に中国貿易に従事することが出来るようになった。彼らはインド産のアヘンを中国に持ち込めば、茶をはじめとする中国の産物と多額の銀を手に入れることが出来た。

 そのため中国へのアヘン流入が激増し、それまで中国に流入していた銀が逆に国外へ大量に流出するようになった。そして銀の海外への大量流出による銀価の高騰は農民の生活を圧迫するようになった。

 清の税制である地丁銀は銀納であったが、農民が実際に手にするのは銅銭であるので、納税にあたっては銅銭を銀に換えて税を納めた。そのため1830年代に銀の価格が2倍に暴騰すると農民の納める税額も2倍となり、農民の生活を圧迫した。

 清朝はアヘンの吸飲が全国に広まる中で、早くからアヘンの吸飲や密輸に対する禁令を出してきた。主なものを年表からひらうと、アヘン輸入の禁止(1796)・アヘンの販売厳禁(1813)・ケシの栽培とアヘンの製造の禁止(1823)・アヘン輸入の厳禁(1831)・英船のアヘン密売禁止(1834)などがある。 しかし、たびたび禁令が出ているということはそれが守られていないことを意味し、禁令下にもかかわらずアヘンの密輸入・密売買は公然と行われ、その輸入量は年とともに増加し、1820年頃は約1万箱(1箱は100斤、約60kg)であったのが、1830年頃は3万箱を超え、1832〜33年には4万箱を超えた。(「詳説世界史」のグラフより)

 1830年代に入ると清朝にとってアヘンの問題はますます深刻になってきた。大量の銀流出という財政問題だけでなく、アヘンの吸飲が官僚や軍隊にも広がってその腐敗・質の低下を招き、また犯罪の増加など治安にとっても大きな問題となった。

 厳禁論と弛緩論の間で揺れていた道光帝(位1821〜50)は、結局厳禁論に従ってアヘンの吸飲には死刑をもって臨むこととし、密輸を根絶するために厳禁論を上奏した林則徐を欽差大臣に任命し(1838)、広州に派遣してアヘンの取り締まりにあたらせた。

 林則徐(1785〜1850)は、福建省に生まれ、進士に合格し(1811)、地方官の要職を歴任して湖広総督となった(1837)。道光帝にアヘン厳禁論を上奏し、自分の管内の湖北・湖南省でアヘンの厳重な取り締まりを行って功績をあげた。このため1838年に欽差大臣(清代の臨時特設の大官、皇帝が臨時の権限を与え内乱の討伐や対外交渉にあたらせた)・両江総督に任命され、1839年初めに広州に着任した。

 林則徐は広州に着任すると、アヘンの吸飲・販売を厳禁し、イギリス商人からアヘン約2万箱を没収し、これに石灰をかけ海水に浸して廃棄処分にし(1839.4)、さらにイギリスとの貿易を禁止する強硬策をとった。

 これに対してイギリスは、アヘンを没収・破棄されたことを口実に自由貿易を実現させようとし、世論を背景に武力干渉にふみきり、アヘン戦争(1840〜42)を起こした。

 イギリス議会で戦費支出が討議されたとき、下院で若き日のグラッドストーン(1809〜98)が「これほど不正な、恥さらしな戦争はかって聞いたことがない。大英帝国の国旗ユニオン=ジャックは、かっては正義の味方、圧制の敵であり、民族の権利、公正な商業のために戦ってきたのに、いまやあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられることになった。国旗の名誉はけがされた。」と反対演説を行ったが、戦費支出は賛成271票・反対262票で可決された。

 1840年6月、軍艦16隻・輸送船27隻・陸兵4000人から成るイギリス軍は広州の沖合に集結した。しかし、林則徐が広州港の防備を厳重にしていたので、北上し舟山島(寧波沖)を占領し、8月には華北に出現して大沽・天津を脅かした。この情勢に驚いた道光帝は林則徐を罷免し(1840.9)広州で講和交渉を行わせた。仮条約が結ばれたが(1841.1)、清の皇帝とイギリス政府はともにこれを拒否し、1841年2月、広州で戦闘が再開された。

 1841年5月、イギリス軍は広州に激しい砲撃を加え、上陸・占領した。清軍が広州で降伏した直後、広州北郊の三元里の住民が平英団という自衛団を組織してイギリス軍を包囲攻撃した。この出来事は平英団事件と呼ばれ、その後の民族運動に大きな影響を与えた。

 広州を陥れたイギリス軍は、その後北上し、10月までには厦門・寧波を占領し、翌1842年5月には軍艦25隻と陸兵1万人から成る大艦隊で上海を占領し、さらに南京に迫った。南京陥落を目前にして清は降伏し、1842年8月29日に南京条約が結ばれた。

 アヘン戦争については、陳舜臣氏の大作『阿片戦争(上・中・下)』(講談社)があるのでぜひ読んでみて下さい。

 南京条約で、清国は広州・福州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の5港の開港、公行の廃止、香港の割譲、賠償金1200万両の支払い、両国の国交は対等を原則とすることなどを認めた。しかし、アヘン貿易については何の規定もなく、事実上合法化された。

 翌年、南京条約が批准されると、これに基づいて清はイギリスとの間に虎門塞追加条約(1843.10)を結んだが、これは領事裁判権などの治外法権や最恵国待遇などを認め、関税自主権を失うことになった不平等条約であった。これを見たアメリカは望厦条約を(1844.7)、フランスは黄埔条約を結んで(1844.10)、イギリスとほぼ同じような権利を認めさせた。




目次へ戻る
次へ