3 東アジアの激動

2 アロー戦争

 イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待したが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがらなかった。

 イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて都の北京の近くにないこと、また広州では領事の駐在や居留地をおくことが延期されるなど中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めたが清朝は応じなかった。そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会をねらっていた。

 その時たまたまアロー号事件が起こった。1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕されるという事件が起きた。これがアロー号事件である。

 イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求した。

 これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、またイギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶した。

 イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会ととらえ、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世をさそって共同で出兵し、アロー戦争(1856〜60) を引き起こした。アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれている。

 イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃した。しかし、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待った。イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのはようやく1857年12月になってからであった。

 英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くした。翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫った。

 対外的にはアロー戦争(1856〜60)、国内では太平天国の乱(1851〜64)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結んだ。

 天津条約の主な内容は、外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・漢口など10港の開港・外国人の中国内地での旅行の自由・英仏への計600万両の賠償金の支払いなどを清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていた。

 1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現した。英仏艦隊は白河をさかのぼって天津へ進もうとしたが、白河の河口には障礙物が施されていた。障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退いた。

 これに憤慨した英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領した。

 驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めたが、交渉が決裂すると咸豊帝(位1850〜60)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行った。

 円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまった。

 清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を結んだ。
 北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結された。従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった。その上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認された。

 ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得した。

 この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになった。

 ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出をはかった。

 ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突した。ネルチンスク条約(1689)によって一時黒竜江方面から退いたが、その後ピョートル1世(位1682〜1725)の命によって始まったベーリング(1681〜1741)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面さらにアラスカにも進出した。またエカチェリーナ2世(位1762〜96)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めていった。

 ムラヴィヨフ(1809〜81)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853〜56)中に黒竜江地域に進出した。

 ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851〜64)やアロー戦争(1856〜60))で苦しんでいるのに乗じて、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせた。

 さらに1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とした。

 またロシアは、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出をはかった。

 当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)=ハン国(1505〜1920)・ヒヴァ=ハン国(1512〜1920)・コーカンド=ハン国(1710〜1876)の3ハン国が分立していたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ=ハン国は1868年に、ヒヴァ=ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド=ハン国は1876年にロシアに併合された。

 1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領した(イリ事件、1871〜81)。反乱は清軍によって1877年に鎮圧されたが、ロシアはイリ地方に居すわった。新はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続いた。

 結局、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還したが、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失った。




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