3 東アジアの激動

3 太平天国の興亡

 清がアヘン戦争(1840〜42)・アロー戦争(1856〜60)の対外的な問題で苦しんでいる間に、国内では太平天国の乱(1851〜64)が起こった。

 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、また重税となって農民の生活を圧迫した。その上水害・干害・蝗害などの天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となった。全国に貧民・流民・失業者があふれ、各地で暴動や反乱が起こったが、アヘン戦争の影響が大きかった広東・広西省では太平天国の乱(1851〜64)が起こった。

 太平天国の指導者洪秀全(1813〜64)は、広東省花県の客家の出身であった。客家(ハッカ)とはよそ者の意味で、広東・広西・江西・福建などの山間僻地に住んだ移住民のことである。彼らはよそから移住してきた人たちで、元から住んでいた人たちから差別され、多くは小作・炭焼き・木こり・鉱山労働・運輸労働などに従事した。

 洪秀全の家は中農で、彼は幼少の頃から聡明であったので、7歳頃から塾で学び、村の塾の教師となって科挙の受験勉強に励んだ。しかし、30歳過ぎまでに地方試験を4回受けたがいずれも失敗した。

 洪秀全は3回目の試験に失敗したときに心痛のあまり高熱を発し、40日間寝込んだ。その時病床で夢を見た。その夢の中に一人の老人が現れ、彼に一振りの剣を与えて「悪魔を根滅せよ」と命じた。この夢を見たあと病気はケロリと治り、再び受験勉強に励み4回目の受験をしてまた落第した。

 失意のなかで彼はたまたま2回目の受験の時に広州の路上でもらった「勧世良言」というパンフレットを読み、そこに書かれている内容が病床で見た夢とよく似ていることに驚き、その本を何度も読み返した。「勧世良言」はプロテスタントの伝道書であった。

 洪秀全は、夢の中に現れた老人はヤハウェ(エホバ)であり、ヤハウェはこの世で苦しむ人を救うために自分を遣わしたと信ずるようになり、自分はヤハウェの子であり、イエス=キリストの弟であると称した。そして同郷の馮雲山らと上帝会(拝上帝会)というキリスト教的な結社をつくり布教を始めた(1844年以降)。上帝とはヤハウェのことである。

 洪秀全らは、上帝を信仰すれば地上の天国で生き、死ねば天国へ昇ることができると説いた。そして地上の天国は、すべてのものが均等に分け与えられるので貧富の差のない世であると説いて、太平天国と呼んだ。

 上帝会は、広西省を中心に布教し、貧農や鉱山労働者・炭焼き人夫など貧しい人々(多くは客家であった)の間に多くの信者を獲得していった。この間、後の太平天国の幹部となる楊秀清(炭焼き)・蕭朝貴(貧農)・韋昌輝(地主)・石達開(地主)らが上帝会に入会しているが、彼らも客家出身であった。

 洪秀全は、上帝会信徒に広西省金田村に集合するようにという指令を発し(1850.7頃)、約1万人が金田村に集まった。

 1851年1月、洪秀全は広西省金田村で太平天国の起義を宣言し、国号を太平天国と号し、彼自身は天王と称した。

 太平天国軍は、北に向かって進撃し、永安・桂林・全州を経て湖南省の長沙を包囲したが陥れることが出来ず囲みを解いて北に向かい、益陽で民船千数百艘を得た。その後水路で進み、岳州でおびただしい武器弾薬を手に入れ、1853年1月にはついに武昌を占領した。

 太平天国軍が湖南省へ進出した頃から貧農や流民が大挙参加し、太平天国軍の兵力は急激に膨張して約50万の大軍となった。太平天国軍は水陸両軍に分かれて長江を下り、1853年3月にはついに南京を占領し、天京と改称して首都とした。

 太平天国軍の最盛期(1854〜55頃)の兵力は約300万(老弱男女すべてを含めた数)といわれている。太平天国軍がこのように急激に増加した最大の理由は「太平天国に行けば食える」ということにあったが、太平天国内ではすべてのものが均等に分け与えられたということも多くの人々を引きつけた大きな理由であった。

 太平天国が挙兵から2年あまりで南京を攻略できたのは、「軍隊よりは盗賊の方がまし」といわれたように清の正規軍の腐敗がはなはだしかったのに対し、太平天国軍は規律が厳格で、殺人・放火・暴行・略奪などはいっさい行わず、役人・地主・富豪を襲って租税や田地に関する文書や借金証書を焼き捨てたが農民には決して手出しをしなかったので民衆の支持を得ることが出来たからである。当時の書物には「太平天国軍がやってくれば争って迎え、官軍がやってくればこれを避けて門を閉じた」と書かれている。

 太平天国は、早くから「滅満興漢」(満州人の王朝である清を滅ぼして漢民族の国家を興すの意味)という民族主義的なスローガンを掲げ、清朝が強制した満州人の風習である弁髪を廃止して長髪としたので、太平天国の乱は長髪族の乱とも呼ばれた。

 太平天国が理想とした平等主義を最もよく示しているのが南京占領直後(1853.3)に発布した「天朝田畝制度」と呼ばれる土地制度で、土地を男女の別なく均等に配分し、余剰生産物はすべて国庫に納入させた。ただし実施には至らなかった。

 またアヘンの吸飲の禁止・纏足(中国では小足が美人の条件とされていたので、良家の子女の足指を4・5歳頃から足裏の方に曲げて布を堅く巻いて縛り、足の成長を妨げて小さくした風習で五代(907〜960)頃に始まったとされている)の禁止など悪習の撤廃・男女の平等と身分制の廃止・租税の軽減などをスローガンに掲げて民衆の支持を得た。

 太平天国は、まもなく清朝の打倒を目指して北伐軍を起こし(1853.5)、10月には天津に迫ったが陥れることが出来ず、その後も2年間にわたって勇敢に戦ったが蒙古騎兵の攻撃を受けて壊滅した(1855)。北伐と同時に西征の軍を進めたが、これは曾国藩の湘軍との長い戦いの始まりとなった。

 こうした状況の中で、天京では太平天国内部で権力争いが起こった。太平天国の幹部は洪秀全・馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開らであったが、馮雲山と蕭朝貴はすでに戦死していた(1852)。

 その後、楊秀清の権力が強まり彼の横暴に対する反感が強まってくると、洪秀全に支持された韋昌輝が楊秀清とその一族を虐殺したが(1856)、その韋昌輝も洪秀全に殺された(1856)。石達開はこうした内紛を嫌って太平天国を離脱し、長江中流域を転戦した後に四川で清軍に捕えられて処刑された(1863)。

 以後、洪秀全は凡庸な一族の者を登用したので太平天国は内部から腐敗していき、また天朝田畝制度など理想として掲げた政策も実施されなかったので、太平天国は次第に内外の支持を失っていった。

 清の正規軍(八旗や緑営)が弱体化して頼りにならなくなると、地方の地主や富豪たちは自分たちの生命や財産を守るために自分で兵を集めて軍隊をつくった。

 清末に、正規軍の不足を補うために地方官や郷紳(科挙に合格しても官吏とならず、郷里に住んだ地方の有力者、多くは地主であった)が募集した臨時の義勇軍は郷勇と呼ばれた。

 郷勇のなかでも、曾国藩(1811〜72)が1853年に郷里の湖南省湘郷県で組織した湘軍や李鴻章(1823〜1901)が曾国藩の命を受けて1862年に安徽省で組織した淮軍は特に有力で、太平天国討伐の主力となり、正規軍以上に戦果をあげた。

 イギリスなど各国は太平天国がキリスト教を奉じているので初めは中立の立場をとっていたが、太平天国がアヘン貿易や不平等条約を認めないことがわかると、北京条約(1860)で英仏の要求をそのまま受け入れた清朝が存続した方が有利であると考えて太平天国の鎮圧に協力するようになった。

 アメリカ人のウォード(1831〜62)は太平天国軍が上海に迫ると(1860.8)、上海商人の要請によって200人の外人部隊を編成して太平天国軍を撃退した。翌年この部隊を解散して外国人将校の下に中国人傭兵を集めた軍を編成して上海周辺の防衛に活躍し、「常勝軍」の名称を得た。

 ウォードの戦死後、イギリス人ゴードン(1833〜85)が指揮官となり(1863)、3000人の部隊を率いて江蘇省各地を転戦して太平天国鎮圧に大きな役割を果たした。

 李鴻章の淮軍と常勝軍は江蘇省・浙江省の太平天国の占領地を次々に奪回して東から天京に迫り、曾国藩の湘軍は西から天京に迫った。

 太平天国では李秀成(1823〜64)が奮戦したが、1864年3月、湘軍によって天京(南京)は包囲され、洪秀全は毒を仰いで自殺した(1864.6)。

 1864年7月、ついに天京(南京)が陥落して太平天国(1851〜64)は滅亡した。

 太平天国運動は近代中国における民族運動の先駆となり、その後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼした。またこれによって清朝の権威は失墜し、太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が台頭するきっかけとなった。




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