3 東アジアの激動

4 洋務運動の進展

 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱などによって西洋の軍事技術が優れていることを認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術などの導入による富国強兵運動を進めた。これを洋務運動という。

 北京条約(1860)によって外国公使が北京に駐在することになったので、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とするとともに、ヨーロッパ文化の摂取に努めた。

 洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠らの漢人官僚であった。

 曾国藩(1811〜72)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼした。その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任した。文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられた。彼は漢人官僚台頭のさきがけとなり、洋務運動の中心人物として活躍した。

 李鴻章(1823〜1901)は安徽省出身、進士に合格したが(1847)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦った。曾国藩の幕僚となり(1858)、のち彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍した。この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設などの富国強兵策を推進した。

 左宗棠(さそうとう、1812〜85)は湖南省出身、科挙の最終試験に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげてびん浙総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努めるなど洋務運動を推進した。

 当時の同治帝(位1861〜75)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもあった。

 洋務運動の推進者たちは「中体西用」をスローガンとした。中体西用とは中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味である。

 このように洋務運動の推進者たちは、中国は軍事技術などの面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えた。彼らが推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取はたんなる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかった。

 洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗をわけたといわれている。不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884〜85)や日清戦争(1894〜95)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こってくる。




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