3 東アジアの激動

6 朝鮮の開国

 李氏朝鮮(1392〜1910)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、さらに17世紀前半には清の侵入を受けてその属国となった(1637)。

 この間、党争はさらに激化したが、18世紀の英祖(位1724〜76)・正祖(位1777〜1800)は党争を抑えることに努めたので党争は下火になった。

 しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(位1849〜63)と年少の王が続いたので、実際の政治は外戚によって行われた。いわゆる勢道政治である。

 こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民らを指導して反乱を起こした(洪景来の乱、1811〜12)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されたが李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となった。

 1863年、哲宗が急死した。彼には嗣子がなかったので、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(位1863〜1907)として即位した。実父の大院君(1820〜98)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握った。

 大院君は内政改革を推し進めるとともに、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、また明治政府からの国書の受け取りを拒否するなど鎖国攘夷策をとった。

 しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851〜95)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自らが実権を握り、一族とともに政治を専断した。

 こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起きた。

 明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせた(1875.5)。

 1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達した。雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受けた。これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させた。これが江華島事件である。

 雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかであったが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結した。その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認めることなどである。

 日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させた。第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とあるが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石であった。

 この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっていたが、閔氏一族は初めは開化的立場をとり、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊をつくり、日本式の訓練を行った。これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まった。

 当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配していた。やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていたことをきっかけに旧軍隊の兵士の不満が爆発した(1882.7)。

 この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府および日本人に対する暴動に発展した。彼らは閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立した。大院君は再び摂政の座について政権を握った。

 日本と清国はただちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活した。これが壬午政変(壬午軍乱)である。この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退した。

 壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図った。この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれている。これに対して日本は金玉均らの独立党(開化派)との結びつきを強めていった。

 金玉均(1851〜94)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872)、1881年には日本使節団に加わり、また翌1882年には壬午政変の謝罪のために派遣された修信使節団員として来日した。彼は日本のめざましい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革をはかろうとし、朴泳孝(1861〜1939)ら同士とともに独立党(開化派)を組織した。

 しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥った。

 金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を握った。

 しかし、独立党の新政権は清軍の介入によってわずか3日で倒され、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命した。これが甲申政変(甲申事変、1884.12)である。

 日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されてそこで暗殺された。

 1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告することなどを約束した。




目次へ戻る
次へ