3 東アジアの激動

7 日清戦争

 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれた。李朝は天主教を禁止して弾圧を加えたが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加していった。

 19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始された。
 没落両班出身の崔済愚(1824〜64)は、在来の民間信仰をもとに東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始した(1860頃)。東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教のことである。彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えた。

 この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化したので、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑した。

 しかし、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼らは全ほう(王へんに奉)準に率いられて全羅道を中心に決起した。

 1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処した。この出来事をきっかけにこの郡守の悪業に耐えかねた農民たちが全ほう準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠した。甲午農民戦争(東学党の乱、1894)はこうして始まった。

 全ほう準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民たちが蜂起した。その中心となったのは東学信徒であった。農民軍は5月末に全州を占領し、さらに漢城(ソウル)へ向かって進撃しようとした。

 当時の政府はこれを鎮圧する力がなかったので、清国軍の出兵を要請する一方で、全ほう準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠をはずすことなどが約束された)を結んだ(1894.6)。

 全ほう準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じた。彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵してくる口実を除去しようとした。

 しかし、全州和約が結ばれるまでに、すでに清と日本は朝鮮に出兵していた。清朝は朝鮮から出兵を要請されるとただちにこれに応じ、天津条約(1885)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸した。日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入れた。

 清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案したが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案をつきつけた。そして期限までに回答がないと王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させた(1894.7.23)。

 その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破した(7.25)。また牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領した(7.29)。

 1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894.8〜95.4)が始まった。

 日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追ってさらに北進した。同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破した。

 北洋艦隊は超大型戦艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻であった。しかし、日本艦隊はスピードに優れ、重砲の数は清より少なかったが速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていた。

 黄海海戦は5時間にわたって続いたが日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破した。これに対して日本艦隊は1隻も失わなかった。

 平壌の戦いで勝った日本軍は鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥れた。翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏した。

 1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれた。

 下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権などを認めた。

 この間、全ほう準は、1894年10月に再び蜂起した。一時は10万以上の農民が全ほう準のもとに集まった。しかし、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗れ、全ほう準も密告によって捕らえられ(1894.11)、翌年ソウルで処刑された。




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