1 絶対主義国家の盛衰

2 スペインの強盛

 スペインは、1479年にアラゴンとカスティリャの合邦によって成立した。合邦後はフェルナンド5世(位1479〜1516)とイサベル(位1474〜1504)が共同統治した。

 この間、イスラム勢力をイベリア半島から駆逐してレコンキスタが完了し、またコロンブスの航海を援助し、新大陸に広大な植民地を建設する基盤がつくられた。

 フェルナンド5世の死後、娘のファナ(ハプスブルク家のフィリップと結婚)の子カルロス1世(位1516〜56)が即位し、スペイン=ハプスブルク王朝が始まった。

 カルロス1世は、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を争い、これを破って神聖ローマ皇帝に選出され(1519)、スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねたので(神聖ローマ皇帝としてはカール5世(位1519〜56)、その領土はスペイン・ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー、1477年以来オーストリア=ハプスブルク家が領有していた)・ナポリ・シチリア(ナポリ・シチリアは父フェルナンド5世から相続)・ドイツ・オーストリア・新大陸に及び、空前の大帝国となった。

 しかし、当時ドイツで起こったルターの宗教改革に巻き込まれ、対外的にはフランソワ1世とのイタリア戦争(1521〜44)やオスマン=トルコの侵入に苦しめられた。

 カルロス1世の治世中、スペインではマガリャンイス(マゼラン)の世界周航(1519〜22)やコルテスのメキシコ征服(1521)・ピサロによるインカ征服(1532)などの出来事が起きている。

 カルロス1世(カール5世)は、ドイツでアウグスブルクの和議が結ばれてルター派の信仰が認められた翌年(1556)に、スペイン王位を子のフェリペ2世に、そして神聖ローマ皇帝位を弟のフェルディナント1世に譲って退位し、スペインの修道院で失意のうちに余生を送り、1558年に亡くなった。

 カルロス1世の後を継いだフェリペ2世(位1556〜98)の時に、スペインの絶対主義は最盛期を現出した。

 フェリペ2世は、熱烈なカトリック教徒で、イギリスのメアリ1世と結婚し(1554)、その後父の退位によってスペイン王となり、スペイン本国・ナポリ王国・ネーデルランド・アメリカ大陸及びフィリッピンの植民地など広大な領土を領有することとなった。

 さらにポルトガルの王統が絶えると、母イサベルがポルトガル王女であったことからポルトガルを併合し(1580)、ポルトガル王を兼ねてその領土(当時のポルトガルはアフリカ・アジアに多くの植民地を領有していた)も継承した。この頃のスペインは「太陽の沈まぬ国(日の没することなき大帝国)」と呼ばれた。

 フェリペ2世は、1571年にはスペイン・ローマ教皇・ヴェネツィア連合艦隊でオスマン=トルコ海軍をレパント(ギリシアのコリント湾)の海戦で破って地中海の覇権をトルコから奪い、新大陸から流入する膨大な金・銀とあいまってスペインの全盛時代を現出した。

 しかし、熱狂的なカトリック教徒であったフェリペ2世は、反宗教改革の中心となり、カトリック政策(旧教化政策)を推し進め、カトリックによる広大な領土の統一をはかり、宗教裁判を強化し、異端を弾圧した。 特にカルヴァン派が普及していたネーデルランドに対して厳しいカトリック政策をとり、 ネーデルランド(オランダ)の独立運動(1568〜1609)を招くこととなった。

 当時、フェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立していた。 エリザベス女王がイギリスの私拿捕船(しだほせん、商船捕獲の特許を受けた民有武装船、分かりやすく言うと海賊船)に特許を 与えて新大陸から大量の銀を輸送するスペインの銀船隊を襲わせたこと、前スコットランド 女王のメアリ=ステュアートをめぐる問題、そしてイギリスがオランダの独立運動を援助したことなどが原因であった。

 そしてメアリ=ステュアートがエリザベス女王暗殺の陰謀に加担したとの疑いから 処刑されると(1587)、フェリペ2世はエリザベスを打倒してカトリックの君主をたてようとして、 1588年にスペインの誇る無敵艦隊(当時世界最大であったスペイン艦隊はこう呼ばれていた)を イギリスに向けて出動させた。

 1588年7月、イギリス海峡に130隻(うち半分が軍艦で残りは弾薬・食糧などを運ぶ 輸送船)からなる無敵艦隊が姿を現した。イギリスは大きさも型もばらばらであったが102隻の 軍艦(この中には多くの私拿捕船が入っていた)を動員してこれを迎え撃った。イギリスの艦船は速度が速く、軽い砲弾を遠くに 飛ばせる大砲を多く積み込んでいた。

 イギリス海軍は、イギリス海峡を通過する無敵艦隊を追って、カレー沖に集結した 無敵艦隊に焼き打ち船作戦(空船に火薬を満載して大砲を発射しながら敵艦につっこんでいく 作戦)を使って攻撃し、混乱に陥った無敵艦隊との6日間にわたる戦闘に大勝し、逃げる 無敵艦隊をスコットランド沿岸まで追撃して引き返した。壊滅状態に陥った無敵艦隊は、スコットランド・アイルランドを迂回してかろうじて 本国に帰り着いたが、53隻の艦船と3分の1の人員を失った(アルマダの海戦、1588)。

 このアルマダの海戦の敗北によって、スペインは大西洋の制海権を失い、また オランダ独立軍を鎮圧するという計画も挫折してスペインが衰退に向かう原因をつくった。

 フェリペ2世治下のスペインには新大陸から膨大な金・銀(特に銀)が流入していたが、宮廷の奢侈と巨額な戦費につぎ込まれ、王室財政は破綻状態に陥っていた。たび重なる重税にもかかわらず財政窮乏は回復せず、新大陸からの大量の金・銀は借金の返済のために国外に流出してしまった。

 また新大陸の富が農業や産業の発展に投下されず、重要な産業であった毛織物工業も発展せず、国民生活を潤すことがなかったことがスペイン衰退の大きな原因であった。




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