1 絶対主義国家の盛衰

6 三十年戦争

 ドイツでは、アウグスブルクの和議(1555)以後も、新教派諸侯と旧教派の皇帝・諸侯との対立が続いていたが、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)の新教徒の反乱をきっかけとして、1618年についに三十年戦争(1618〜48)が始まった。

 アウグスブルクの和議は、「支配者の宗教、その支配地に行われる」という言葉に示されているように、個人の信仰の自由はなく、支配者(諸侯)の信仰の自由であって、住民は支配者が選択した宗教に従わなければならなかった。従って、支配者がカトリックで住民がプロテスタントなどのように、支配者と住民の信仰する宗教が異なる場合には、いつでも紛争が起きる可能性があった。

 三十年戦争のきっかけになったのはベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱であった。
 1617年にハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がベーメン王に選出された。フェルディナントは、イエズス会の教育を受けて反宗教改革を推進した熱狂的なカトリック教徒で、ベーメン王になると国内の新教派の教会を次々に閉鎖し、旧教の信仰を住民に強制した。

 それに憤激した新教派の人々がプラハの王宮に乗り込み、新教派弾圧の急先鋒であった二人の皇帝顧問官を 王宮の窓から20m余り下の壕に突き落とした。二人は奇跡的に助かったが、この出来事(1618)が三十年戦争の発端と なった。三十年戦争は大きく4つの時期分けられる。 

 第1期(1618〜23、ベーメン=ファルツ戦争)は、ベーメンの新教徒の反乱を中心とするドイツ国内の宗教 戦争の時期である。

 神聖ローマ皇帝マティアスが亡くなり、フェルディナント2世(位1619〜37)が帝位につくと、ベーメンの 議会は彼の廃位を宣言し、カルヴァン派で新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世を ベーメン王に選んだ。

 フェルディナント2世は、旧教派諸侯の援助を得て、フリードリヒ5世をヴァイセンベルクの戦い(1620)に破り、反乱を鎮圧した。もし外国の介入がなければ、三十年戦争はこのまま終わる可能性もあった。しかし、デンマーク・スウェーデン(ともに新教(ルター派)国)の介入によって三十年戦争は国際戦争に発展した。

 第2期(1625〜29、デンマーク戦争)は、デンマークが新教側を助けるために介入し、旧教側をスペインが援助したので三十年戦争は国際的な宗教戦争となった時期である。

 デンマーク王クリスチャン4世(位1588〜1648)は、国内では絶対王政の確立に努め、対外的には北ドイツへの領土拡大の機会をうかがっていた。そしてイギリス・オランダから軍資金援助の約束を取り付けると、ドイツの新教徒援助を口実に6万の軍を率いてドイツに侵入した(1625)。

 しかし、デンマーク軍は名将ティリの率いる旧教連盟軍に大敗し(1626)、皇帝軍はユトランド半島奥深く攻め込んだ。結局デンマークは以後ドイツに一切干渉しないことを条件に和約が結ばれた(1629)。

 第3期(1630〜35、スウェーデン戦争)は、スウェーデンの介入によってますます激しい国際的な宗教戦争となった時期である。

 スウェーデン王グスタフ=アドルフ(グスタフ2世、位1611〜32)は、17歳で即位し、デンマーク・ロシア・ポーランドと戦ってバルト海に大勢力を築き、スウェーデンを北欧の一大強国とした名君で「北方の獅子」とあざなされた。

 1630年6月、グスタフ=アドルフはフランスから軍資金援助の約束を得て、歩兵・騎兵・砲兵からなる1万3000の軍を率いてポンメルンへ上陸した。グスタフ=アドルフはブランデンブルク選帝侯・ザクセン選帝侯など有力な新教諸侯と同盟して、連戦連勝、破竹の進撃を続けてフランクフルト・マインツを占領し、さらに進んで皇帝軍の名将ティリを破りミュンヘンを占領した(1632)。

 絶望的な状況に追い込まれた皇帝フェルディナント2世は、この状況を打開できるのはヴァレンシュタインしかいないと考え、デンマーク戦争の際に一度は罷免したヴァレンシュタインを再び起用した。

 ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン、1583〜1634)は、ベーメンの小貴族の出身の有名な傭兵隊長で、三十年戦争初期のベーメンの反乱の時に皇帝フェルディナント2世を支持し、北ベーメンに広大な没収土地を獲得して巨万の富を築いた。デンマーク戦争が始まると、皇帝のために自己の資金で5万の傭兵を募集し(1625)、皇帝軍の総司令官になった。新教軍に連戦連勝し、クリスチャン4世をドイツから駆逐した。しかし、彼の野心を恐れる旧教派諸侯の圧力で、罷免された(1630)。しかし、グスタフ=アドルフの快進撃で戦況が悪化すると、再び起用されて総司令官になった。

 グスタフ=アドルフとヴァレンシュタインは、1632年のリュッツェンの戦いで激突した。激戦の中でグスタフ=アドルフは銃で撃たれて戦死した。しかし、王の戦死はスウェーデン軍を奮い立たせ、戦いはスウェーデン軍の勝利に終わった。

 ヴァレンシュタインはリュッツェンの戦いの後ベーメンに帰り、鳴りをひそめた。そして皇帝には秘密のうちに新教側と和平交渉を行ったために、皇帝の疑惑を受けて罷免され、皇帝派によって暗殺された(1634)。

 第4期(1635〜48、フランス=スウェーデン戦争)は、フランスの参戦によって政治戦争化した時期である。

 フランスは、ハプスブルク家に対抗するためにデンマーク・スウェーデンを援助してきたが、リシュリューは1635年にスウェーデンと同盟を結び、スペインに宣戦を布告し、ドイツにも出兵して直接介入に踏みきった。

 旧教国のフランスが新教側に立って参戦したことは、三十年戦争がもはや宗教戦争ではなく、ブルボン家対ハプスブルク家という政治戦争に変わったことをよく示している。

 戦況は一進一退を繰り返し、さらに長期化した。この間、皇帝フェルディナント2世も亡くなり(1637)、戦争の長期化によって新・旧両派ともに疲弊し、和平への機運が高まった。フランス・スウェーデン側が優勢の中で、講和会議が1644年からウェストファリア地方の2都市で始まったが、各国の利害が対立して交渉は進まず、4年間続いて、やっと1648年にウェストファリア条約が調印された。

 近代国際会議の始まりとされているウェストファリア講和会議には66カ国が参加し、以後のヨーロッパの歴史にとって重要なことが決定された。

 三十年戦争の原因となった信仰の問題については、アウグスブルクの和議の原則が再確認されるとともにカルヴァン派が認められた。諸侯はカトリック・ルター派・カルヴァン派の選択の自由が認められたが、領民には支配者と違う宗派を信仰する場合には立ち退きの自由が認められただけであった。

 ウェストファリア条約で最大の利益を得たのはフランスであった。フランスはアルザスの大部分とメッツ・トゥール・ヴェルダンの3司教領を獲得した。そしてスウェーデンも西ポンメルンを獲得し、ヨーロッパ大陸に初めて領土を持つこととなった。

 ドイツの諸侯と帝国都市にはほとんど完全な主権と外交権が認められたので、ドイツには約300の領邦国家が分立することになり、神聖ローマ帝国の分裂は決定的となった。そのためウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証書」ともいわれた。

 また中世末期に事実上独立していたスイスと、独立戦争によって1609年には事実上独立していたオランダの独立が国際的に承認された。

 三十年戦争は傭兵の戦いであった。ヴァレンシュタインのような戦争請負人=傭兵隊長が、自費で傭兵を集めて、その軍隊を皇帝や諸侯に売り込んだ。傭兵隊長達は民衆から軍税と称して臨時の租税を徴収し、さらには都市や村落を脅して税を取り立てて軍隊の維持や戦費にあてた。民衆は税負担のみならず、兵士達の掠奪・暴行にも苦しめられた。一般的に傭兵軍の規律は低く、給料は戦時にのみ支払われたので、戦争が無いときは傭兵達は 徒党を組んで村落を襲い、略奪・暴行の限りを尽くした。

 このため戦場となったドイツ各地の農村の荒廃は激しく、三十年戦争前に1800万人であったドイツの人口は終戦時には700万人に激減したと言われている。こうしてドイツは政治・経済・社会面で西欧諸国に比べて著しく立ち遅れることとなり、ドイツの後進性は決定的となった。




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