1 絶対主義国家の盛衰

7 プロイセンとオーストリア

 ウェストファリア条約によって、約300の領邦国家が分立するようになったドイツで最も強大だったのはハプスブルク家のオーストリアであるが、三十年戦争の被害が比較的少なかったドイツの北東部でプロイセンが次第に有力となり、オーストリアと並ぶドイツの二大強国にのし上がってきた。

 プロイセン(プロシア)の地名は、もとバルト海沿岸に居住していたバルト系住民の名に由来するが、ドイツ騎士団が13世紀にこの地を征服してドイツ人の国家を建てた。16世紀初めにドイツ騎士団領がプロイセン公国となり(1511)、のちにホーエンツォレルン家の騎士団長はプロテスタントに改宗した(1525)。

 ホーエンツォレルン家は、もとは南ドイツの小貴族であったが、15世紀初めにフリードリヒ1世がブランデンブルク辺境伯領の統治権を得て選帝侯となった(1415)。1618年にプロイセン公国のホーエンツォレルン家が断絶したのでブランデンブルク選帝侯が相続し、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国は合併してブランデンブルク=プロイセン(1618〜1701)となった。

 ブランデンブルク=プロイセンの発展の基礎を築いたのが、大選帝侯と呼ばれるフリードリヒ=ヴィルヘルム(位1640〜88)である。彼はウェストファリア条約によって東ポンメルンを獲得し、またプロイセンに対するポーランドの宗主権を排除して完全な主権を獲得した(1657)。さらにルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノーを弾圧すると、約1万5000人のユグノーの亡命を受け入れてブランデンブルク=プロイセンの経済発展にも力を尽くし、後のプロイセンの絶対主義の基礎を築いた。

 フリードリヒ=ヴィルヘルムの子、フリードリヒ3世(位1688〜1701)はスペイン継承戦争(1701〜13)の際、皇帝を助けて初めて王号を認められ、プロイセン王となった(位1701〜13)。

 プロイセン王国(1701〜1871)の2代目の王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713〜40)は、官僚制を整備し、産業を保護して財政の充実に努めた。「兵隊王」とあざなされた彼は、特に軍備の増強に力をそそぎ、徴兵制を実施し、また全ヨーロッパから傭兵を募って長身の兵を選んで巨人部隊をつくるなど、即位時には3万8000人であったプロイセンの軍隊を没時には8万3000人の軍隊に増強し、プロイセンをフランス・ロシアに次ぐヨーロッパ3番目の陸軍国とした。

 フリードリヒ=ヴィルヘルム1世によって基礎が築かれたプロイセンの絶対主義・軍国主義を完成し、プロイセンを一躍ヨーロッパの最強国の一つにしたのが有名なフリードリヒ2世(大王、1712〜86、位1740〜86)である。

 フリードリヒ2世は、皇太子時代には軍事訓練や狩猟などを嫌い、詩文や音楽(フルート演奏をよくし、作曲もしている)を愛好した。「兵隊王」の父は、このような軟弱なフリードリヒに我慢がならず、優れた軍人に育てるために厳しくあたった。

 その父に反発したフリードリヒは、18歳の時に父の西ドイツ旅行に随行し、すきを見て友人と母の実家のあるイギリスへ逃亡する計画を練った。しかし、計画は未然にもれて失敗に終わり、共謀者の友人は彼の目前で首をはねられた(1730)。

 フリードリヒ自身は側近の取りなしでかろうじて死をまぬがれたが、1年間監獄につながれた。この出来事はフリードリヒの生涯の転機となり、その後は軍務に精励し、父の死後プロイセン王に即位した(1740.5)。彼の即位の5ヶ月後にオーストリアでカール6世が亡くなり、マリア=テレジアが即位した。

 神聖ローマ皇帝カール6世(位1717〜40)は、息子の死後、名門ハプスブルク家を相続できるのは男子に限るという家訓に反して、一人娘のマリア=テレジアにハプスブルク家の全領土を相続させようとした。そのためカール6世は1724年に国事詔書(プラグマティッシェ=ザンクツィオン、1713年に制定)を発布し、女子の領土相続権と領土不分割を宣言して、列国の承認を取り付けた。

 しかし、カール6世が亡くなり、マリア=テレジア(マリア=テレサ、1717〜80、位1740〜80)がハプスブルク家の全領土を相続すると、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯(ともにカール6世の兄ヨーゼフ1世(位1705〜11)の娘婿)とスペインはマリア=テレジアの相続に異議を唱えて帝位継承権を要求した。

 この時、フリードリヒ2世は、マリア=テレジアの帝位継承を認める代償として、シュレジエン(シレジア、鉄・石炭などの資源に富む豊かな地方)を要求してシュレジエンに侵入し、わずか2〜3週間で全シュレジエンを占領した(1740.12)。これをきっかけにオーストリア継承戦争(1740〜48)が始まった。

 フリードリヒ2世のシュレジエン奪取に激怒したマリア=テレジアはシュレジエン奪回をはかったがプロイセン軍に敗れた(1741.4)。この情勢を見てフランスとスペインがバイエルン選帝侯と同盟してマリア=テレジアの相続に反対し、バイエルン選帝侯の皇帝擁立をはかった。さらにプロイセンもフランスと同盟を結んだ(1741)。

 これに対して、当時常にフランスと敵対していたイギリスは(当時イギリスとフランスは激しい植民地争奪戦を繰りひろげていた)オーストリアを援助したが、オーストリア(マリア=テレジア)は、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯・プロイセン・フランス・スペインを相手に戦うこととなり苦境に立たされた。そのためオーストリアはやむなくプロイセンにシュレジエンを割譲して和約を結んだ(1742)。

 プロイセンの同盟離脱によってオーストリア・イギリス側が優勢となるとフリードリヒ2世は再び参戦して(1744)オーストリアと戦った。しかし、バイエルン選帝侯(マリア=テレジアの対立候補、フランスなどの支持によってドイツ皇帝に選出されカール7世(位1742〜45)となる)が亡くなり、マリア=テレジアの夫が正式に皇帝に選出されてフランツ1世(位1745〜65)となると、フリードリヒ2世は再び和約を結び、シュレジエンを確保する代わりにフランツ1世を承認した。その後もフランス・スペインとの戦いは続いたが、結局1748年にアーヘンの和約が結ばれて、オーストリア継承戦争は終結した。

 アーヘンの和約では、原則として全ての占領地を相互に返還し、オーストリアは国事詔書とマリア=テレジアの夫のフランツ1世の帝位承認の代わりにプロイセンにシュレジエンを割譲した。

 その後、マリア=テレジアは、シュレジエンの奪回とフリードリヒ2世に対する復讐を決意し、国力の充実をはかり、行政・司法・軍事などの改革を進めるとともに、活発な外交工作を展開し、プロイセン包囲網をつくるためにロシア・フランスに接近した。

 ロシアとの間にはすでに同盟が成立していた(1746)。しかし、フランスとの同盟は、ハプスブルク家のオーストリアとブルボン家のフランスが200年以上にわたって覇権を争ってきた宿敵であったために交渉は難航した末に、1756年5月にやっと成立した。このことはヨーロッパの外交における一大変化で、この宿敵ハプスブルク家とブルボン家の提携は「外交革命」と呼ばれている。

 オーストリアの復讐戦が避けられないと考えたフリードリヒ2世は、フランスと敵対しているイギリスに接近し、イギリスの援助を取り付けていた(1756.1)。そして機先を制してザクセンに先制攻撃をかけ(1756.8)、ここに七年戦争(1756〜63)が始まった。

 オーストリア・フランス・ロシアというヨーロッパの3強国を敵として戦わねばならなくなったプロイセンは、緒戦で敗れたが、その後フランス・オーストリア(1757)に、さらにロシアに勝利し(1758)、一時フリードリヒ2世の名声は高まった。しかし、59年にロシア・オーストリア連合軍に大敗し、ロシア軍によって一時ベルリンを占領される(1760)など絶望的な危機に陥った。フリードリヒ2世は毒薬を身につけて戦場に臨みながら苦境に耐えていたが、思いがけない出来事が彼を苦境から救った。

 1762年1月にロシアで女帝エリザヴェータが亡くなり、ピョートル3世が即位した(位1762)。ピョートル3世はドイツ出身で、生来病弱・低能で、フリードリヒ2世を崇拝し、彼に心酔していた。そのため即位すると周囲の反対を押し切ってロシア軍を召還し、プロイセンと単独で講和条約を結び(1762.5)、続いて同盟を結んだ。

 この出来事によって窮地に陥っていたフリードリヒ2世は息を吹き返し、オーストリア軍を破ってシュレジエンを奪回し、さらにフランス軍をライン左岸に撃退した。

 マリア=テレジアも、オーストリア単独でプロイセンを屈服させることは不可能であると考え、1763年にフベルトゥスブルク条約を結び、プロイセンのシュレジエン領有を最終的に認めて、七年戦争が終結した。

 この間、イギリスとフランスは、北米とインドで植民地をめぐって激しく争った。北米のフレンチ=インディアン戦争(1755〜63)でもイギリスが勝利し、1763年にパリ条約が結ばれた。

 フリードリヒ2世は、この二つの戦争によって、プロイセンを一躍ヨーロッパの強国の地位に高めた。彼は若い頃からフランスの啓蒙思想に親しみ、フランスの哲学者ヴォルテールと文通し(1736〜)、また『反マキャヴェリ論』(1739)を著し、その中で「君主は国家第一の僕(しもべ)」という有名な言葉を残し、啓蒙専制君主の典型とされている。宗教的寛容政策や産業の育成・司法の改革などを行っているが、最も力を注いだのは国家財政の充実と軍備の増強であった。彼の政治の目標は後進国の上からの近代化であり、その本質は専制政治であった。

 一方、オーストリア(オーストリア=ハプスブルク家領)は、17世紀にオスマン=トルコの第2次ウィーン包囲を撃退し(1683)、カルロヴィッツ条約(1699)を結んでハンガリーとその周辺を確保し、オーストリアはドイツ人・マジャール人(ハンガリー)とチェック人(ベーメン)などのスラブ系諸民族を含む複合民族国家を形成することになった。またスペイン継承戦争によってスペイン領ネーデルランド・ミラノ・ナポリ・サルデーニャを獲得した。

 カール6世(位1717〜40)の死後、ハプスブルク家を相続したマリア=テレジア(位1740〜80)は、プロイセンとの戦いでシュレジエンを失ったが、第1次ポーランド分割(1772)に参加して領土を拡大した。彼女は16人の子供に恵まれ、良き母・良き妻であったが、同時に男勝りの女帝であった。マリア=テレジアは、夫フランツ1世(位1745〜65)の死後は、長子ヨーゼフ2世と共同でオーストリアを統治した。

 ヨーゼフ2世(位1765〜90)は、母の死後ようやく親政を始めた(1780)。若い頃にフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世は啓蒙専制君主としてオーストリアの近代化に努め諸改革を実施した。

 彼は、農奴解放(1781)や宗教寛容政策、さらに商工業の保護育成や学校・病院の建設なども行った。しかし、改革が急進的であったために貴族や領内の異民族の強い反抗にあって成果をあげることが出来ず、墓誌に「善良なる意図にもかかわらず、何事にも成功しなかった人ここに眠る」と彫らせた。




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