2 イギリス立憲政治の発達

4 議会政治と政党内閣

 ウイリアム3世(位1689〜1702)は、オランダ人であったのでイギリス国民からはあまり好感を持たれなかったが、議会と協調し、政党政治への道を開いた。

 当時の国王は、一方の党からだけ大臣をとり、これによって拘束されることを嫌って両党の代表者による連立内閣を組織させた。

 ウイリアム3世も初めはトーリー・ホイッグ両党から半数ずつの大臣を任命して連立内閣を組織させたが政争が絶えなかったので、晩年にはホイッグ党に内閣を組織させ、トーリー党の大臣を退けた(1694)。ここに議会の多数党に内閣を組織させるという政党政治が始まった。

 ウイリアム3世時代のイギリスは、ファルツ継承戦争(1688〜97)が起こると、それに呼応して北米の植民地でもフランスと戦った(ウイリアム王戦争、1689〜97)。さらにスペイン継承戦争(1701〜13)にも参戦したが、まもなく落馬事故が原因で亡くなった。

 ウイリアム3世には子がなかったので、メアリの妹のアンが王位を継承し、アン女王(位1702〜14)が即位した。

 アン女王は、ウイリアム3世の政策を引き継ぎ、スペイン継承戦争でルイ14世と戦い、北米の植民地でもフランスとの間にアン女王戦争(1702〜13)を戦って勝利し、ユトレヒト条約(1713)でフランスからハドソン湾・アカディア・ニューファンドランドを獲得した。

 またアン女王の時代の1707年に、イギリスはそれまで同君連合の関係にあったスコットランドを合併して大ブリテン王国(Great Britain)となった。1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイギリス王位を継承してジェームズ1世となり、ステュアート朝を創始して以来、スコットランドはイギリスと同君連合の関係にあった。

 アン女王の死後、ステュアート朝が断絶し(アン女王には16人の子があったが早死した)、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯が迎えられてジョージ1世として即位し、ハノーヴァー朝(1714〜1917、現王室)が始まった。ハノーヴァー朝は第一次世界大戦中の1917年に敵国ドイツの地名を嫌って、王宮所在地名のウィンザー朝と改称し、現在のエリザベス2世に至ったいる。

 ジョージ1世(位1714〜27)は、ジェームズ1世の曾孫(母がジェームズ1世の孫のソフィア)であったので、ステュアート朝の断絶によってイギリス王となった。しかし、この時すでに54歳で英語を解せず、イギリスの制度・慣習などについても知識がなかったのでイギリスよりもドイツに滞在することの方が多かった。そのため政務をもっぱら大臣にゆだね、特に1721〜42年の約20年間はホイッグ党のウォルポールに国政を委ねた。

 ウォルポール(1676〜1745)は、ジェントリの家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、1701年にホイッグ党から下院議員に当選して政界に進出した。ジョージ1世の厚い信頼を受け、1721年に蔵相であったウォルポールが最初の首相となり、以後約20年間にわたって政権を担当した。健全財政と平和外交に尽力してイギリスの繁栄を支えたが、1742年に総選挙で敗れて退陣した。

 このウォルポールによって、内閣は国王に対してでなく議会に責任を負うという責任内閣制度が確立し、「国王は君臨すれども統治せず」という伝統が生まれた。

 しかし、当時のイギリスの議会制度はまだ未完成で、議員の資格や参政権は相当の土地を所有する地主(ジェントリや貴族)に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買さえ行われ、まだ民主的なものといえず、その根本的な改革は1832年の第1次選挙法改正を待たねばならなかった。




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