4 17〜18世紀のヨーロッパ文化

4 啓蒙主義

 自然科学の発達を背景に、合理主義的批判精神に基づいて、政治・社会・宗教などの不合理な伝統や権威の打破をめざす思想運動が、17世紀のイギリスで始まり、18世紀にはフランスやドイツに広まった。

 この人間の理性を尊重し、不合理な伝統や権威を批判し、迷信や偏見を打破し、社会的不正を攻撃し、民衆を無知の状態から解放しようとする思想を啓蒙主義(啓蒙思想)という。この啓蒙思想は、市民革命を経験したイギリスに比べて、政治や社会の不合理が目立っていたフランスで最も発展した。

 モンテスキュー(1689〜1755)は、ボルドー高等法院の院長を勤めた(1616〜26)法官貴族で、院長を退職した後、ヨーロッパ各地を旅行し(1628〜31)、イギリスにも滞在した。ロックの影響を受けて自由主義的な政治思想を展開し、フランスの絶対王政を批判した。

 モンテスキューは、『ペルシア人の手紙』(1721)で、パリに来たペルシア人が故郷の友人とかわす往復書簡の形式をとって、ヨーロッパの制度・風俗を大胆に批判した。また主著『法の精神』(1748)では、各国の法律制度を、各国の風土・習俗・社会・政治的条件と関連づけて考察し、イギリスの憲政を讃えて紹介し、有名な三権分立論を主張した。

 ヴォルテール(1694〜1778)は、貴族と対立して投獄され、出国を条件に釈放されてイギリスに渡り(1726〜29)、名誉革命後の自由なイギリスに接した。帰国後、『哲学書簡(イギリス便り』(1734)を発表し、書簡の形式でイギリスの社会制度や思想を紹介して賛美し、フランスの絶対主義をイギリスと比較して批判したので、この書物は発禁処分となった。

 後にフリードリヒ2世の招きでポツダムに滞在したが(1750〜53)、晩年はジュネーヴ近郊に移り、もっぱら文筆活動に専念した。ヴォルテールは迷信や宗教家の非寛容を攻撃し、さらにカトリック教会を非難して啓蒙運動に大きな役割を果たした。

 フランスの代表的な啓蒙思想家ルソー(1712〜78)は、スイスのジュネーヴで時計職人の子として生まれた。10歳の時に孤児となり、13歳で徒弟奉公に出された。16歳の時に放浪の旅に出、フランスでヴァラン婦人と出会い(1728)、以後その庇護のもとで独学で様々な学問を学んだ。30歳の時にパリに出て、ディドロらと交友を結んだ。

 『学問芸術論』(1750)の成功で執筆生活に入り、『人間不平等起源論』(1755)・『社会契約論』(1762)、『エミール』(1762)・『告白』などを著した。

 特に『人間不平等起源論』では、自然状態を平和な状態と規定し、不平等の起源を私有財産制に求め、文明社会に対して鋭い批判を行い、文明社会の不平等な・非人間的な状態から脱却して人間性を回復せよと主張し、「自然に帰れ」と唱えた。

 また『社会契約論』(民約論)では、社会契約説・人民主権(主権在民)を主張し、フランス革命に影響を与えた。

 ディドロ(1713〜84)とダランベール(1717〜83)は、約20年(1751〜72)にわたり、当時のフランスの啓蒙思想家のほとんどを動員して、28巻(初版)の『百科全書』を編纂した。『百科全書』に執筆したフランスの啓蒙思想家たちは百科全書派と呼ばれている。

 『百科全書』には、発刊当時から政治的圧力が加えられたので、第8巻以降は秘密出版で行われたが、大きな社会的反響を呼び、啓蒙思想の集大成・普及に大きな役割を果たした。




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