1 中国文化圏の拡大

1 明の興亡(その1)

 元末の紅巾の乱のなかから頭角をあらわした朱元璋は、1368年、南京(金陵、応天府)で即位し、明王朝(1368〜1644)を開いた。

 朱元璋(1328〜98)は、安徽省の貧農に生まれた。大飢饉と流行病によって父母と長兄を失い(1344)、彼は食を求めて寺に入ったがそこでも食べられず、乞食同然の托鉢僧となって各地を放浪した。やがて紅巾の乱の一派である郭子興の軍に身を投じた(1352)。

 元末の紅巾の乱は、白蓮教徒の乱ともいわれる。白蓮教は、弥勒下生信仰(みろくげしょう、慈悲深い弥勒菩薩が乱世で苦しんでいる人々を救うためにこの世に現れるという信仰)を中心とする宗教結社で貧民の心をとらえた。彼らは紅い布きれを目印としたので紅巾軍と呼ばれた。

 紅巾軍に加わった朱元璋は、多くの武功を立てて頭角をあらわし、郭子興の片腕となり、彼の死後、全軍を握り(1355)、翌年南京を攻略してここを根拠地とした。

 元末、各地に群雄が割拠したが、長江流域では上流に陳友諒・中流に朱元璋・下流に張士誠が鼎立する情勢となった。朱元璋は、陳友諒を破って、呉王と称して紅巾の乱から自立し(1363)、さらに張士誠を破って長江流域を支配下におさめ(1367)、翌1368年に、南京で即位して、国号を明(1368〜1644)、年号を洪武と定めた。

 建国後は、一世一元の制(皇帝一代を一年号とする制度)を定めたので、朱元璋は太祖洪武帝と呼ばれる。中国史上、農民出身で皇帝になったのは、漢の劉邦と朱元璋の二人だけである。

 洪武帝は、即位後すぐに大軍をもって、元朝の首都大都(北京)を攻略し、元の順帝を北に追いやり、1381年までに中国全土の統一を達成した。

 元は、順帝の死後、子の昭宗がモンゴル高原に退いて、北元(1371〜88)を建てて初代皇帝となったが、北元は洪武帝による再三の攻撃に敗れ、2代で滅亡した。

 明は、江南から興って中国を統一した中国史上唯一の王朝である。秦・漢・隋・唐・宋・元などはすべて華北から興り、江南を征服して中国統一を達成した王朝である。明が江南から興って中国を統一したことは、特に南宋以来江南の開発が進み、江南の経済力が充実し、江南が中国経済の中心となってきたことをよく示している。

 明は、異民族の征服王朝であった元を北方に追いやり、中国を漢民族の手に取り戻して建てられた王朝である。洪武帝は、「漢民族の中国」という民族意識を高めながら、荒廃した農村の復興を中心に国土の再建に努め、一方で君主独裁を強化する支配体制の確立に努めた。

 洪武帝は、猜疑心が強く、建国の功臣が力を持つことを恐れ、将来の禍根を断つために、胡惟庸(こいよう)の獄(1380)と藍玉(らんぎょく)の獄(1393)などで、約5万人を誅殺したといわれている。

 胡惟庸の獄を機に、中央官制を改め、六部(りくぶ、行政機関)を統轄する中書省を廃止して、宰相の制をやめ、六部を皇帝直属として君主独裁制の強化をはかった。

 また衛所制と呼ばれる軍制を確立した。衛所制は、唐の府兵制を範とした兵制で、民衆を民戸と軍戸に分け、民戸には税役を負担させ、軍の戸籍は一般と区別して世襲の軍戸とし、軍役に服させる代わりに税役を免除した。軍戸の正丁112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所(5600人)で1衛を編成した。明初には全国に329衛があり、強力な軍事力になったが、中期以後は衰えた。
 こうして洪武帝は、宋以来強化されてきた君主独裁制を確立した。

 地方の村落行政組織としては、里甲制を実施した(1381)。
 里甲制は、賦役負担能力のある民戸110戸で1里を編成し、そのうち富裕な10戸を里長戸(村長にあたる)とし、残りの100戸を10甲に分け、各甲に甲首戸をおく村落制度である。里長と甲首は、1年交代の輪番で10年で1巡し、賦役黄冊の作成・租税の徴収・治安の維持などにあたった。

 里甲制と関連して、賦役黄冊と魚鱗図冊を作成させた。
 賦役黄冊は、明代の戸籍であり、租税台帳を兼ねた。1381年に全国的に作成させ、以後10年ごとに里長・甲首に作成させた。黄表紙を用いたので黄冊と呼ばれた。

 魚鱗図冊は、土地台帳のことで、書かれた土地の形が魚の鱗(うろこ)に似ていたのでこの名で呼ばれた。魚鱗図冊には、土地一区画ごとに場所・面積・形・税の負担額・所有者及び佃戸(小作人)の氏名などが記されていた。

 民衆教化のために六諭(りくゆ)を発布した(1397)。六諭は「父母に孝順なれ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をするなかれ」の6カ条からなる教訓で、里老人(有徳の年長者が任命された)が月に6回、これを唱えつつ里内を巡回した。

 また洪武帝は、唐以来ほとんどそのまま用いられてきた律(刑法)を明の実情の合わせて改め、明律(大明律)として制定した(1367)。この明律はその後3度の改訂を経て1397年に完備された。また唐令を範とし、宋・元の法を参考にして作成された明令(大明令)を公布し(1368)、国家体制を支える法令を整備した。

 洪武帝には26人の男子があった。彼は諸子を各地の王に封じ、一族を帝室の藩屏としようとした。特にモンゴルの侵入に備えて、北辺の王には優れた人物を充てると同時に強大な兵権を与えた。

 洪武帝の死後、長男の皇太子はすでに亡くなっていたので、皇太孫の建文帝(恵帝、位1398〜1402)が16歳で即位した。建文帝は、側近の進言により、各地に封じられた一族諸王を抑制し、彼らの勢力削減をはかったので、叔父にあたる燕王朱棣(しゅてい)が北京で挙兵した。

 燕王朱棣(1360〜1424)は、洪武帝の第4子で、洪武帝の子のなかでも特に優れた人物であったので燕王に封じられて北平(北京)に赴いた。強大な兵権を与えられた燕王は、兄の晋王とともにモンゴル(北元)との防衛戦に活躍した。

 洪武帝の死後、建文帝が即位して、側近の進言により諸王抑圧削減策をとり、各地の諸王を次々と取りつぶしていくのをみた燕王はいずれは自分もその対象になると考え、「君側の奸を除き、帝室の難を靖んず」と称して挙兵し、帝位をめぐる内紛が始まった。この叔父と甥の帝位をめぐる内紛は靖難の変(1399〜1402)と呼ばれている。

 戦いの勝敗は容易に決せず、持久戦となり4年にわたったが、燕王は一挙に首都を突く作戦に出て、1402年についに南京を陥れ、王宮にも火を放った。建文帝は火中で死んだ(建文帝の最後については、このとき逃れて生き延びたという説もあり、謎である)。

 燕王は、南京で帝位につき、年号を永楽と改元した。すなわち中国史上有名な明朝第3代の成祖永楽帝(位1402〜1424)である。  




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