1 中国文化圏の拡大

1 明の興亡(その2)

 永楽帝(位1402〜1424)は、即位すると、建文帝の遺臣や反対勢力を徹底的に弾圧し、諸王の勢力を削減して君主独裁制をさらに強化していった。

 永楽帝は、内閣大学士をおいて、皇帝親政の補佐の任にあたらせた。内閣大学士は重要政務に参画し、明の後半期には事実上の宰相となった。その一方で宦官を重用したため、宦官の力が次第に強まり、後にはその弊害が大きくなり、明滅亡の一因となった。

 また、即位後まもなく、北平を北京と改称して遷都し(1403)、10数年を要して紫禁城を中心とする都づくりを進め、1421年には正式に北京に遷都し、江南と北京を結ぶ運河を整備した。

 即位当初、彼には帝位簒奪者との非難が強かったので、その非難をかわすために学者を総動員して大編纂事業を行わせた。中国最大の類書(百科事典)である『永楽大典』(1408年完成)や『四書大全』・『五経大全』などを編纂させた(1415年刊)。

 永楽帝の名を有名にしているのは、その積極的な対外政策によってである。
 北方のモンゴルに対しては、5回にわたって親征し(1410〜1424)、「五出三犂」(漠北に5度遠征し、3度敵を撃ち破ったの意味)といわれた。中国史上、皇帝自ら大軍を率いて砂漠を越えて親征を行ったのは、永楽帝と清の康煕帝だけである。

 中国東北地方にも遠征軍を送り、黒竜江下流地域にまで勢力を伸ばした。
 南方のヴェトナムでは陳朝(1225〜1400)が権臣の胡氏に滅ぼされた。永楽帝はヴェトナムの内政に干渉し、大軍を送って(1406)、胡氏父子を捕らえ、以後ヴェトナムを20年間(1407〜1427)にわたって明の支配下におき、漢化政策を進めた。

 永楽帝の対外政策のなかで最も有名な出来事は、鄭和の南海遠征(1405〜33)である。
 鄭和(1371〜1434頃)は、雲南出身のイスラム教徒で、永楽帝に宦官として仕え、靖難の変で功績をあげ、宦官の長官に任命された。そして南海遠征の指揮官として前後7回の遠征を行った。遠征の目的は、明の国威を発揚するとともに、南海諸国(東南アジア)の朝貢貿易を促すことにあったが、建文帝の行方を捜す密命を受けていたともいわれている。

 第1回目は1405〜07年に行われ、この時の船団は数百人を載せた大型帆船62隻、乗組員は2万7000人に及んだといわれている。以後07〜09、09〜11、13〜15、17〜19、21〜22の6回目までが永楽帝時代に、第7回は宣徳帝時代の31〜33にわたって行われた。第3回までは東南アジア・インド西岸まで、第4回以後はペルシア湾・アラビア半島・アフリカ東岸にまで達した。これにより南海諸国の朝貢が相次ぎ、南海貿易が活発となった。

 永楽帝の積極的な対外政策によって、明の領土は最大となったが、彼自身は第5回モンゴル親征の帰途に病没した(1424)。

 永楽帝の死後、4代仁宗が即位したが病弱で在位わずか8ヶ月で亡くなり、その子宣宗宣徳帝(位1425〜35)が即位した。宣徳帝は名君といわれ、内治と財政を安定させるために対外消極策をとり、北方ではオイラートの南下を、南方ではヴェトナムの独立運動を黙認した。

 宣宗が38歳の若さで亡くなったので、英宗正統帝(位1435〜49、6代・8代の皇帝で8代の時は天順帝と呼ばれた)が9歳で即位した。

 当初は賢臣が補佐したが、次第に宦官の専横を許し、政治が乱れた。国内ではケ茂七の乱(1448〜49)がおこり、大農民反乱となったが、明は大軍で鎮圧し、ケ茂七は敗死した。

 その直後に、北方から全モンゴルを統一したオイラート部のエセン=ハン(?〜1454)が長城内に侵入してきた。英宗は宦官の勧めで、親征してこれを撃とうとしたが、明軍は土木堡(河北省北部)で全滅し、英宗は捕虜となり連行された(土木の変、1449)。

 明は北辺防衛のために、永楽帝の時代から万里の長城の修築に取り組んでいたが、このオイラートの侵入以後積極的に取り組み、15〜16世紀に山海関から嘉峪関に至る2400kmに及ぶ修築を行った。八達嶺などで見ることの出来る現存する長城は、この明代に修築された長城である。

 土木の変で英宗が捕虜となったので、弟の代宗(位1449〜57)が即位した。翌年和議が成立し、英宗は許されて帰国したが、代宗によって幽閉された。後に英宗は、代宗の病に乗じたクーデターによって復位し、8代天順帝(位1457〜64)となったが、宰相に政治を委ねた。

 10代孝宗弘治帝(位1487〜1505)は、明の支配体制を立て直し、中興の英主とされ、平和な状態が続いたが、11代武宗正徳帝(位1505〜21)は、遊興にふけり、政治を宦官に任せきりにしたので、宦官の専横はますます激しくなり、各地で連年にわたって反乱が起こった。

 12代世宗嘉靖帝(位1521〜66)は、当初善政を行ったが、のち道教にこって政治をおろそかにした。嘉靖帝の時代は、いわゆる「北虜南倭」の外患が最もひどかった時代で、明はその鎮圧に苦しみ、衰退に向かった。北虜南倭は、明中期以後の外患をいい、北虜は北からのオイラート・タタールの侵入、南倭は南(東)からの倭寇の侵入を指す言葉である。

 北方では、オイラート部にかわり、タタール部(韃靼、だったん)が強盛となり、特にアルタン=ハン(1507〜82)は、1520年代以降、連年にわたって明に侵入し、長城一帯を荒らし回った。40年代になると侵入はますます激しくなり、1550年にはついに北京が包囲された。しかし、アルタン=ハンがその後中国の西北に転じたので、明は救われた。

 一方、倭寇は、13〜16世紀に朝鮮・中国の沿岸を侵した日本の海賊・貿易商人を呼んだ名である。倭寇の活動は、14世紀を中心とする前期倭寇と16世紀を中心とする後期倭寇に分けられ、前期は朝鮮半島沿岸から黄海沿岸が主であったが、後期になると中国沿岸、特に華中から華南沿岸が中心となり活動も活発化した。また前期倭寇は日本人が多かったが、後期倭寇には中国人が多く、中国の書物には「真倭は二・三で、その七・八は偽倭である」と書かれている。

 北虜南倭により、防衛のための軍事費が増大し、14代神宗万暦帝(位1572〜1620)が10歳で即位した頃には、政治の腐敗と財政窮乏が大問題になっていた。この大問題に取り組み、政治の立て直しに努めたのが張居正であった。

 張居正(1525〜82)は、穆宗(万暦帝の前の皇帝)の時に内閣大学士(宰相)の列に加わり、改革の必要性を訴えてきたが、若い万暦帝が即位すると、以後10年間にわたって首席内閣大学士として実権を握り、政治・財政改革に取り組んだ(張居正の改革)。

 特に財政改革では、全国規模の検地の実施や租税の確保、軍事費の節約などにより財政を立て直し、明中興の実をあげた。

 しかし、張居正が死ぬと(1582)、万暦帝は宦官を寵愛し、政務を放棄し、奢侈にふけった。そのため政治は乱れ、各地で反乱が起こった。

 中央では、東林党(明末の政治的党派、東林書院を中心に、官僚と協力して宦官派に対抗した)と非東林党(宦官派に与した反東林官僚の勢力をいう)の党争が激化した。

 また「万暦の三大征」といわれる、寧夏のモンゴル人の反乱、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(1592〜93)・慶長の役(1597〜98))に対する朝鮮の李朝への援軍、貴州省の蕃族首長の反乱がおこり、さらにビルマ出兵・東北地方の女真族との戦いの激化などによる多額の軍事費の支出によって財政は破綻し、国力は急速に衰えた。

 北京郊外の明十三陵の一つ、定陵が万暦帝の陵墓である。地下数10メートルの地下墳墓で、万暦帝・皇后の柩とともに玉座をはじめ多くの財宝類が安置されている。この豪華な定陵の建設が明の財政を傾けたともいわれている。

 「明朝の滅亡をいう者は、崇禎帝(最後の皇帝)に滅びずして、万暦に滅ぶという」と書かれたように、明は万暦帝の死後20余年で滅亡することとなる。

 明朝最後の皇帝となった毅宗崇禎帝(位1627〜1644)は、英明であったが、積年の病弊はいかんともしがたく、特に女真族の清との戦いに莫大な軍事費を費やし、増税に次ぐ増税を行って民衆を苦しめた。

 たまたま陜西省で大飢饉がおこり、それを機に大規模な農民反乱がおこった。このうち最も有力であったのが張献忠の乱と李自成の乱であった。

 李自成(1606〜45)は、陜西省の貧農に生まれ、大飢饉によって陜西省の農民が反乱をおこすと彼も飢民を率いて反乱に加わり(1631)、反乱の指導者高迎祥の部下となって頭角をあらわし、彼の死後、闖王(ちんおう)と称し、西安を占領し(1643)、国号を大順と号した。彼は部下の掠奪を禁じ、貧しい農民を救ったので、各地の農民の支持を得た。そして100万と号する反乱軍を率いて破竹の進撃を続け、山西を経て北京に入城した(1644)。
 崇禎帝は自殺し、約300年続いた明はついに滅亡した(1644)。

 しかし、李自成は、清に降伏して南下してきた呉三桂(明の武将)の軍に敗れ、わずか40日で北京を追われて西安に逃れたが、さらに清軍の追撃を受けて湖北で自殺した。




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