1 中国文化圏の拡大

2 清の統一(その1)

 中国東北地方を原住地とするツングース系の女真族は、その地で半農・半牧・半猟の生活を営んでいた。女真族は、女直とも呼ばれ、清代には自らマンジュ(満州)と称した。女真族の一部は、12世紀に金朝(1115〜1234)を建国したが、モンゴルに滅ぼされ、13世紀以後は元・明に服属した。

 明代には、女真族は女直と呼ばれ、その居住地によって、建州女直(牡丹江上流から長白山一帯に居住)・海西女直(松花江沿岸に居住)・野人女直(黒竜江下流から沿海州にかけて居住)の3つに大別され、大部族集団を形成していた。

 ヌルハチ(太祖、1559〜1626、位1616〜26)は、建州女直の一首長の子に生まれた。姓はアイシンギョロ(漢字では愛新覚羅(あいしんかくら)と表記)である。25歳の時に、祖父と父が明との戦いで戦死した(1583)。

 しかし、ヌルハチはその後数年間で建州女直の諸族を従え、以後約30年かかって、ほぼ女真族の統一を成し遂げた。そして1616年に推されてハン位につき、国号を後金(こうきん、1616〜36、1636年に清と改称)と称した。

 ヌルハチは、「七大恨」(7カ条にわたって明の罪状を述べたもの、その第1に祖父や父の殺害をあげている)を宣言し(1618)、明の根拠地である撫順城を攻略した。明は翌年10万余の大軍を送り、後金の本拠地をついたが、サルホ山の戦い(サルホの戦い、1619)で大敗を喫した。

 ヌルハチは、さらに瀋陽・遼陽(遼東)を攻略し(1621)、1625年には瀋陽に遷都した。翌1626年には、寧遠(山海関の北)を包囲したが失敗し、まもなく病没した(1626)。

 この間、ヌルハチは八旗を編成して軍制を整え、また金の女真文字にかわる独自の満州文字をつくり、女真族の民族的自覚を促した。

 八旗は、女真族固有の狩猟・軍事組織を基礎として新たに編成した軍事組織であり、同時に行政・社会組織でもあった。
 男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1グサ(旗)として編成された。8つの軍団は、黄・白・紅・藍の4色と、それぞれに縁をつけた八つの旗を標識としたので八旗と呼ばれた。

 ヌルハチは、後継者を決めずに亡くなったが、武勇に優れ・サルホの戦いでも功績があり・衆望を集めていた第8子のホンタイジ(当時34歳)が推されてハン位についた。

 太宗(ホンタイジ、位1626〜43)は、ヌルハチの遺業を継いで長城以南にたびたび侵入して明を圧迫する一方で、朝鮮に2度にわたって出兵して(1627、1637)李朝を服属させた(1637)。

 内モンゴルのチャハル部にも2回の親征を行って(1628、1635)これを平定し、蒙古人で編成された蒙古八旗を設けた(1635)。この時、元朝の伝統を継ぐ証拠となる玉爾を得たので、改めて帝位につき、国号を後金から清(1616〜1912)に改めた(1636)。

 清の勢力が強大となり、明への圧迫が強まるにつれて、明朝内部では年を追って動揺が激しくなり、清に投降する官僚・軍人が増加した。
 太宗は、投降してきた漢人を優遇し、六部・理藩院の設置など諸制度を整え、また漢軍八旗を編成(1642)するなど、国力の充実に努め、清朝の基礎を築いた。
 しかし、太宗は、中国征服に乗り出す計画が進むなかで、瀋陽で急死した(1643)。

 太宗の死後、第9子でわずか5歳の世祖順治帝(位1643〜61)が清朝第3代皇帝として即位し、叔父のドルゴン(ヌルハチの14子、1612〜50)が摂政となり、政治の実権を握った。

 ドルゴンは、李自成が北京を攻略したとの報に接し、10万の兵を率いて南下し、山海関の北100kmの寧遠に進出した。当時、山海関(万里の長城の東端)を守っていた明の武将が呉三桂であった。

 呉三桂(1612〜78)は、遼東に生まれ、父の功績で武将となり、清の進出に対して遼西を守っていた。1644年李自成が北京に迫ったときは、山海関の北で清軍と対峙していた。北京が危うくなると北京防衛の命を受け、前線から引き返して山海関に向かった。

 しかし、途中で北京陥落・明滅亡の報を受け、前の清軍・後の李自成軍にはさまれて窮地に陥った。呉三桂は、ドルゴンに領土割譲を代償に李自成討伐の援助を求め、清軍を山海関から北京へ導いた。

 ドルゴンの率いる清軍は、呉三桂の案内で怒濤のように南下し、北京を陥れて、李自成を北京から駆逐した(1644)。

 呉三桂は、この功績により平西王に封じられ、以後明の遺王・遺臣の平定に功を立て、雲南に駐屯してなかば独立した大勢力を築いた。

 ドルゴンは、北京に入城すると、崇禎帝を弔い、大赦・減税を行って漢人の懐柔に努める一方で再度にわたって有名な弁髪令を発し(1644・1645)、漢人男子に強制し、従わない者に対しては厳しく断罪した。

 弁髪は、頭髪を剃り上げ、一部を残して長く編んで背中に垂らす満州人など北方民族の風習である。清はかって満州で明と戦っていた頃、弁髪の有無によって敵味方を区別していたが、中国を支配し始めると、弁髪をもって清への服従・忠誠の証と考え、これを強制した。

 弁髪令に対しては、中国人は意外な抵抗を示したので、最初は厳しく強制しなかったが、中国支配が固まってくると、翌1645年には「頭をとどめんとすれば髪をとどめず、髪をとどめんとすれば頭をとどめず」と厳しい命令として改めて布告した。

 明は滅亡したが、明の遺臣たちは明の王族を奉じて、「反清復明」(清に反抗し、明を復興する)運動を起こし、各地に亡命政権が樹立された。

 万暦帝の孫の福王は、南京で即位したが(1645)、清の攻撃を受けて敗走し、翌年捕らえられて殺された。唐王(洪武帝9世の孫)は、福州で鄭芝竜らによって擁立されたが(1645)、翌年捕らえられて殺された。また浙江省で擁立された魯王(洪武帝10世の孫)は最後は台湾で没し、1646年に広東で即位した桂王(永明王、万暦帝の孫)は、各地を転々とし、最後はビルマに逃れたが、呉三桂に捕らえられて殺され(1662)、明朝の王族は絶えた。

 順治帝は、ドルゴンの死後、親政した(1651〜)。彼は、儒教を国政の基本として中国的君主となり、また呉三桂ら漢人を重用して、中国全土の統一をほぼ達成したが、24歳の若さで没した。

 順治帝の死後、聖祖康煕帝(位1661〜1722)が8歳で即位した。康煕帝は中国史上第一の名君といわれ、康煕・雍正・乾隆の3代130年間(1661〜1795)に清は最盛期を現出した。




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