1 中国文化圏の拡大

2 清の統一(その2)

 清朝第4代の聖祖康煕帝(こうきてい、1654〜1722、位1661〜1722)は、順治帝の第3子で、8歳で即位した。彼は幼いときから読書・学問を好み、終生これに励み、また質素堅実な生活態度を一生通し、中国史上第一の名君といわれた。

 当初は、4人の大臣が輔政したが、1667年以降は親政し、即位以来の問題であった三藩の撤廃を企てた。

 清は、中国平定に漢人武将を利用したが、彼らのうち王号を与えられて雲南に駐屯した呉三桂・広東の尚可喜(しょうかき、1604〜76)・福建の耿継茂(こうけいも、?〜1671)は三藩と呼ばれ、一大勢力をなしていた。

 康煕帝は、尚可喜が引退願いを出したのを機に、三藩の撤去を命じた(1673)。これに対して最大勢力であった呉三桂がまず叛き(1673)、耿継茂の子・耿精忠も呉三桂の誘いに応じて清に背いた(1674)。尚可喜は清朝への忠誠を変えなかったが、子の尚之信は呉三桂に応じた(1676)。これが三藩の乱(1673〜81)である。

 初めは三藩軍が優勢で、呉三桂は帝位についたがまもなく死去した(1678)。清朝は一時危機に陥ったが、康煕帝は緑営(漢人で編成された、八旗につぐ正規軍の一つ、緑旗とも呼ばれる)を動員して鎮圧にあたり、呉三桂の死後は形勢が逆転し、跡を継いだ呉三桂の孫も自殺し、三藩の乱はついに鎮圧された(1681)。

 三藩の乱を平定し、中国支配を確立した康煕帝は、台湾を根拠地として「反清復明」運動を続ける鄭成功の制圧に乗り出した。

 鄭成功(1624〜62)は、鄭芝竜を父、日本人の田川氏の娘を母として平戸で生まれた。1630年に明に渡り、明が滅亡すると(1644)、父とともに唐王を奉じて挙兵した。そして唐王から王室の姓である「朱」姓を賜ったので、国姓爺と呼ばれた。近松門左衛門の「国姓爺合戦」は、彼を主人公とする戯曲である。

 父の鄭芝竜はまもなく清に降伏したが(1646)、鄭成功は唐王亡き後は永明王を奉じ、厦門を奪って根拠地とし(1650)、清に反抗を続けた。日本にも援助を要請したが不成功に終わった。

 鄭成功は、1659年には南京に迫ったが失敗し、1661年に台湾に攻め込み、ゼーランディア城を攻略してオランダ人を駆逐した。以後、台湾を「反清復明」運動の根拠地としたがまもなく病没した(1662)。鄭成功の死後は、子の鄭経が復明運動を受け継ぎ、三藩の乱に乗じて大陸反攻を図ったが失敗に終わった。

 康煕帝は、三藩の乱を鎮圧すると、台湾に侵攻して鄭氏を滅ぼし、台湾を初めて中国の領土とした(1683)。鄭氏は3代22年で滅び、清朝の中国統一が完成した。

 当時、北方ではロシアがシベリアを東進して太平洋岸に達し、さらに黒竜江(アムール川)沿いに南進し、アルバジンに要塞を築いて根拠地とし、清の北辺に迫った。

 康煕帝は、これに反撃し、アルバジンをロシアから奪回し(1685)、1689年にはピョートル1世との間にネルチンスク条約を結んで、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、両国の通商などを定めた。ネルチンスク条約は清がヨーロッパの国と結んだ最初の対等の条約である。

 またモンゴル高原では、ジュンガル部(オイラートの一部族)が、ガルダン=ハン(位1676〜97)のもとで外モンゴル・東トルキスタンを支配して最盛期を迎え、清軍ともしばしば衝突していた。康煕帝はガルダン=ハン討伐に3度親征を行った(1690・1696・1697)。ガルダン=ハンは、1696年に康煕帝に敗れ、翌年自殺した。これによって清は外モンゴルを支配下においた。
 さらにチベット遠征を行い(1718〜20)、ジュンガル勢力をチベットから駆逐して、チベットも支配下においた。

 康煕帝は、内政にも力をつくし、宦官の数を縮小し、黄河の治水にも努めた。また1711年には、在位50周年を記念して、「盛世滋生人丁」(1711年以後に増加した成年男子には丁銀を課さないという減税策)を行い、地丁銀(清の税制)への道を開いた。

 また学術を奨励して大編纂事業を行った。『康煕字典』(漢字字書)を編纂し、『古今図書集成』(百科辞書)の編纂も行わせたが完成は雍正帝の時になった。

 康煕帝は、在位61年、康煕・乾隆時代といわれる清の全盛期の基礎を確立した。康煕帝には35人の男子があったが、皇太子問題で苦労したので、遺言によって第4子の雍正帝を指名して亡くなった。

 清朝第5代、世宗雍正帝(1678〜1735、位1723〜35)は、44歳で即位したため、彼の在位は13年と短かったが、康煕帝と乾隆帝の間にあって重要な役割を果たした。

 雍正帝は、内政に力をそそぎ、君主独裁の強化・軍機処の設置・キリスト教の禁止などを実施した。

 まず君主独裁を徹底し、官界の綱紀粛正をはかり、官僚への監督を厳重にして少しでも違法なことがあれば告発して重罪に処した。また皇帝への報告を自ら点検して朱筆で批判して送り返し、政治の末端まで把握した。

 もっとも重要なことは軍機処を設置したことである。軍機処は、清の軍事行政の最高機関である。最初は軍の機密を守るために臨時に設けられた機関(軍機房)であったが、のちに独立して正式の機関となった(1732)。数名の軍機大臣で構成され、内閣にかわって最高機関となり、皇帝のもとで重要な政務に関与した。軍機処の設置によって皇帝の独裁権はさらに強化された。

 また地丁銀(清の税制)が全国に普及・施行されるようになったのも雍正帝の時代であった。

 異民族の征服王朝であった清は、「文字の獄」といわれる筆禍事件によって、反満・反清思想を弾圧し、そのような著述をなす者を極刑に処した。特に雍正帝の時がもっとも厳重であった。

 江西省で行われた科挙の郷試の試験官として派遣された査嗣庭が出題した試験問題の中に「維民所止」(維(これ)民の止(お)るところ)という語句が問題となった。「維と止」の二字は「雍と正」の字画の頭が欠けている。これは雍正帝の首をはね、清に反旗をひるがえす意図であると糾弾・断定され、本人・一族の者が死刑となったというのは有名な例である。

 さらにキリスト教を禁止し、朝廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放し(1723)、キリスト教の布教を全面的に禁止した(1724年実施)。

 雍正帝は、外交・外征には消極的であったが、青海の反乱を抑え、青海・チベット支配を確立し(1724)、またロシアとの間にキャフタ条約(1727)を結んで、ロシアとモンゴルの国境を画定し、国境での交易場の設置などを取り決めた。

 雍正帝は、在位13年、円明園の離宮で急死した。そして遺言によって第4子が即位した。清朝第6代、高宗乾隆帝(1711〜99、位1735〜95)である。

 乾隆帝は、その治世中に10回の対外遠征(十全の武功)を行い、1757年には東トルキスタンのジュンガル部を、1759年には回部(ウイグル人の居住する地域)を平定し、清の支配領域を拡大し、清朝の領土は最大となった。

 その結果、18世紀中頃には、清は中国本土・東北地方(満州)・台湾を直轄領、モンゴル・東トルキスタン(新疆)・チベット・青海を藩部、そして朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマー(ビルマ)を属国とする大帝国となった。

 清は、中央に理藩院を設置して藩部関係事務を統轄させた。モンゴル・東トルキスタン(新疆)・チベット・青海の藩部に対しては要地に将軍・大臣を派遣する以外は、自治を行わせ、間接的に統治した。理藩院は、太宗が内モンゴルを平定したときに設置した蒙古衙門を起源とし、1638年に理藩院と改称され、乾隆帝時代に藩部の増大につれて整備・拡充された。

 また乾隆帝は、学を好み、学術を奨励し、学者を総動員して大編纂事業を行わせた。特に10年かかって完成した『四庫全書』は、古今の書物をほとんど網羅し、7万9582巻からなる一大叢書である。

 乾隆帝時代は、まさに清の全盛期であり、華やかな時代であったが、晩年には綱紀がゆるみ、衰退のきざしが現れ、譲位した翌1796年には白蓮教徒の乱が起こった。

 清は中国統治にあたっては、明の制度を継承しながら、雍正帝による軍機処の設置や理藩院のように独自の制度を合わせて行った。

 中央官庁では、要職の定員を偶数とし、満州人と漢人を同数任命する満漢併用制(満漢偶数官制)をとったが、軍機大臣など特定の官職は満州人が多く、同一官職では満州人を優位においた。

 軍制では、満州八旗・蒙古八旗・漢軍八旗の各八旗を正規軍としたが、八旗以外に常備軍として漢人で編成する緑営(緑旗)を各地に置き、治安の維持にあたらせた。

 中国人の統治にあたっては、強硬策(威圧策)と懐柔策を併用する巧妙な統治方法をとった。

 強硬策(威圧策)としては、弁髪の強制・文字の獄や禁書による思想統制を行い、懐柔策としては満漢併用制(満漢偶数官制)や科挙を盛んに行ない漢人にも出世の道を開いた。また学者を優遇して大編纂事業を行い、学者を優遇した。

 強硬策(威圧策)と懐柔策を併用する巧妙な統治によって、異民族による征服王朝であった清が300年にわたって中国を支配した。 




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