1 中国文化圏の拡大

3 明清の社会

 明代になると、江南の開発の進展や農業技術の向上によって農業生産力はますます増大した。宋代以来、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」といわれたように米作の一大中心地であった長江下流域は、大運河沿いで交通の便も良く、江南の物資の集散地としてすでに宋代から発展していたが、明中期の16世紀頃から、絹織物・綿織物などの手工業・商業が盛んとなり、都市が発達した。特に絹織物の蘇州・綿織物の松江が有名である。

 しかし、生産力の高かった長江下流域が負担する税も膨大で、都市在住の不在地主(多くは大商人)による大土地所有制と佃戸制がますます進み、明末清初にはこの地域の農民の約9割が佃戸であったといわれている。そのため、彼らは苦しい家計を補うために、家族をあげて副業として機織りの内職に努めた。

 絹織物・綿織物に代表される農村家内工業が盛んになると、その原料である綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及した。そのため米作の中心は、長江下流域から長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)に移り、長江中流域が新たな穀倉地帯となった。そして明末には、従来の「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」にかわって「湖広熟すれば天下足る」といわれるようになった。

 さらに茶の栽培や陶磁器の生産もますます盛んとなり、特に景徳鎮には明代に政府の専用工場が設けられ、数10万人が働き、染付・赤絵などのすぐれた陶磁器が作られ、景徳鎮の名は世界的に有名となった。

 商業・手工業などの発達は、米・生糸・綿花・絹織物・綿織物・茶・陶磁器などの商品の流通を促し、客商と呼ばれる遠隔地商人によって各地に運ばれて取り引きされ、山西商人や新安商人などが全国的に活動した。

 山西商人は、山西省出身の商人層で、明初から政商として活躍し、後には金融業を中心に商業・手工業など多方面にわたって全国的に活躍したが、江南では新安商人の進出により次第に後退した。

 新安商人は、明の後半から江南を中心に全国的に活躍した安徽省徽州(旧新安郡)出身の商人層で、最初は塩商として発展し、海外との交易にも活躍した。

 また商業・手工業などの発達にともない、主要な都市では会館・公所が建てられた。会館・公所は、商工業などの同業者や同郷者の団体が親睦・互助のために建てた建物で、建物内には事務室・会議室の他に宿泊施設や倉庫もあった。会館・公所は最初は建物を指したが、後には同業者や同郷者の団体そのものも指すようになった。

 明の洪武帝は、倭寇対策の一つとして海禁を行った(1371)。海禁とは、明・清両王朝が行った海上交通・貿易・漁業活動などへの制限のことで、外国船の往来・中国人の海外渡航や外国との交易・大船の建造や所有・漁業活動などを制限した。しかし、密貿易が盛んになり、厳重な取り締まりがかえって倭寇の侵入を招いたので1567年には緩和された。

 明中期は、ヨーロッパの大航海時代にあたり、16世紀になるとポルトガル人をはじめヨーロッパの商人が来航し、絹・茶・陶磁器など中国の産物を手に入れるために、メキシコ銀などの大量の銀を持ち込んだ。また日本銀(明代における日本からの最大の輸入品であった)も大量に流入したので、16世紀以降、銀が主要な通貨として流通するようになった。

 明は、1375年に宝鈔と呼ばれる紙幣を発行して銅銭と併用したが、宝鈔を乱発したために信用が低下して次第に使われなくなり、銀と銅銭の流通が盛んとなり、特に16世紀以降は銀の流通がますます盛んとなった。

 銀の流通が増大すると、税の一部を銀で代納する傾向が現れてきた。そのため一条鞭法と呼ばれる新しい税法が、16世紀後半にまず江南で実施され、やがて各地に広まり、16世紀末までにほぼ全国に普及していった。

 一条鞭法は、土地を対象とする田賦(地税)と人丁(成年男子)を対象とする徭役(丁税)などをそれぞれ銀に換算して一括して銀納とした税制である。一条鞭法は、従来別々に割り当てられて複雑になっていた諸税を一括して簡素化した税制で、唐の両税法以来の大改革であった。

 万暦帝時代に、財政改革を行った張居正は、全国的に検地を行うとともに、一条鞭法を全国的に実施して、一時明の財政再建に成功したが、張居正の死後、明の財政は再び悪化した。

 商工業や貨幣経済が発達する一方で、地主・商人・官僚の支配に苦しんだ農民たちは、しばしば暴動を起こした。

 明末から清初にかけて、抗租運動(佃租(小作料)をめぐる佃戸の地主に対する抗争)や奴変(ぬへん、家内奴隷が身分解放を求めて主家に対しておこした暴動)などが江南を中心に激しくなった。

 また広東や福建方面の農民を中心に、海禁を犯して東南アジア各地に移住し、密貿易などに従事する者も多く、のちの南洋華僑のもととなった。

 明代の社会・経済の傾向は、そのまま清代に引き継がれ、江南はますます中国経済の中心地として重要な役割をはたした。「湖広熟すれば天下足る」といわれたように長江中流域は米作の一大中心地であったが、長江流域では、明末から清代にかけてヨーロッパからさつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・藍・落花生・たばこなどが伝わり栽培された。このうちさつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・落花生・たばこは新大陸からヨーロッパへ伝えられた作物である。

 特に康煕・雍正・乾隆の3代130年間は、国内の商工業や外国貿易がますます盛んとなり、銀の流入はさらに増大し、国家財政は豊かになった。

 しかし、ヨーロッパ人との貿易はキリスト教との関係から、乾隆帝時代に広州1港に限定された(1757)。

 税制では、はじめ明の一条鞭法を受け継いだが、18世紀の初めの雍正帝時代に、地丁銀が全国的に実施されるようになった。

 地丁銀は、丁銀(丁税、人丁に課せられていた徭役を銀に換算した額)を地銀(地税)に組み込んで、土地の所有高に応じてのみ徴収する税制で、これによって古来の人頭税(人丁ごとに課せられた税や役)は姿を消すことになった。その意味で地丁銀は、中国の税制の中で画期的な税制とされ、これによって税制はさらに簡略になった。

 この地丁銀への移行の前提となったのが、康煕帝が1711年に在位50周年を記念して行った減税策である「盛世滋生人丁」である。康煕帝は、1711年以後に増加する人丁(成年男子)、すなわち盛世滋生人丁に対する丁税を免除した。これによって丁口(成年男子の数)と丁税が固定されることになり、丁銀の地銀への組み込みが可能となり、地丁銀への道が開かれることとなった。




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