1 ルネサンス

4 ルネサンス文芸の社会・政治的背景

 ルネサンスは、ヨーロッパ近代の出発点とされているが、中世的要素を強く残していること、またその貴族的・保守的性格などの点で限界があった。

 ルネサンス時代に活躍した学者や芸術家は都市に住む知識人で都市の大衆や農民とは無縁で、ルネサンスは広く大衆に及ぶものではなかった。

 学者や芸術家の多くは、フィレンツェのメディチ家やローマ教皇などの権力者の保護の下で活躍し、経済的にも保護者に依存することが多かった。そのためルネサンスは貴族的性格をおび、個人的に聖職者や貴族を批判・攻撃することはあっても、社会組織や教会制度の改革を主張するまでには至らなかった。

 イタリア=ルネサンスは、16世紀後半には衰退し、ルネサンスの中心は西ヨーロッパ諸国に移っていった。

 イタリア=ルネサンスが衰退した理由としては、ヨーロッパ人の対外進出(いわゆる地理上の発見)によってアフリカ南端を回って直接アジアへ行くことが出来るようになり、従来の地中海経由の東方貿易が衰退に向かい、イタリア諸都市が没落したこと。

 中世以来、イタリアは多くの都市共和国・諸侯国や教皇領などに分裂し、神聖ローマ皇帝・フランス王・スペイン王などの干渉を受け、イタリア戦争と呼ばれる覇権争いが続いて分裂・混乱が続いたことなどがあげられる。

 イタリア戦争(1521〜44、広義には1494〜1559)は、イタリア支配をめぐる神聖ローマ皇帝・フランス王・スペイン王などの抗争で、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻して以来抗争が繰り返された。

 特にフランス王フランソワ1世(位1515〜47)は、神聖ローマ皇帝をめぐってハプスブルグ家のスペイン王カルロス1世(位1516〜56、神聖ローマ皇帝としてはカール5世)と争って敗れ、スペインとドイツにまたがる大勢力となったハプスブルグ家と激しく対立し、1521年から44年まで北イタリアを中心に、複雑な外交的なかけひきと激しい戦いを繰りひろげた。

 フランソワ1世は、カール5世に対抗するために、ドイツのルター派諸侯を援助し、またオスマン=トルコのスレイマン1世(位1520〜66)と結ぶなどトルコまでを巻き込み、当時ドイツで起こった宗教改革にも大きな影響を及ぼした。

 結果的には、フランスが不利で、北イタリアにおけるフランス勢力はほとんど一掃された。

 マキァヴェリ(1469〜1527)は、このようなイタリアの状況を憂い、イタリアの統一を熱望し、「君主論」を著した。

 マキァヴェリは、フィレンツェの小貴族の家に生まれ、メディチ家が追放された後に、フィレンツェ共和政府の外交使節となり、たびたび外国に使いした。1521年にメディチ家が復帰すると、役を追われ、一時投獄された。釈放後郊外に隠棲して「君主論」(1513年頃執筆)・「ローマ史論」などを書いた。

 マキァヴェリは、「君主論」の中で「君主が獣の方法を取らなくてはならぬ場合には、彼はまず狐と獅子を選ぶがよい」と説いている。

 君主は狐のようなずる賢さとライオンのような力を使い分けて統治すべきであるという意味で、目的のためには手段を選ばないという権謀術数主義(マキァヴェリズム)を端的に表している。

 マキァヴェリがこのような極端な論を説いたのは、中央集権化した諸大国の侵入からイタリアを救うにはイタリアの統一が急務であること、そのためには道徳や宗教に縛られない強力な君主の出現が必要であるという祖国愛からであった。
 「君主論」は近代政治学の先駆として高く評価されている。




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