1 中国文化圏の拡大

4 明清代の文化

 元朝をモンゴル高原に退けて、漢民族による中国統一を達成した明朝では、民族的・伝統的文化復興の気運の高まりを背景に、再び儒教が盛んとなった。

 明では朱子学は官学となり、永楽帝の命によって『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』などが編纂された。また中国最大の類書である『永楽大典』も編纂させた。

 『四書大全』と『五経大全』(ともに1415年刊)は、『四書』と『五経』を朱子学の説によって解釈した注釈書で、以後科挙試験の解釈の基準となった。 また『性理大全』(1415年完成)は、宋・元の性理学(朱子学のこと)の学説を集大成した書である。しかし、国家が経典の解釈を定めたために、儒学は形式化し、思想の固定化が進んだ。

 16世紀初めには、王守仁が陽明学をおこし、「知行合一」を説いた。
 王守仁(1472〜1528)は、陽明と号したので、王陽明と呼ばれることの方が多い。彼は浙江省に生まれ、28歳で進士に合格して官吏となったが、有力な宦官と対立したために貴州省に左遷された(1508)。この地で「心即理」などを悟り、陽明学を創始した。その後、中央政界に復帰し(1516)、反乱の鎮圧などに功績をあげ、兵部尚書(長官)に昇進した。1528年には広西省の反乱を鎮圧したが、その帰途に没した。

 王陽明は、南宋の学者で朱子学の主知主義に反対した陸九淵(1139〜92)の学説を発展させ、「心即理」(万物の本質・人間の本性である理は、情のない理性のうちにあるのでなく、情や欲を含む人間性の中にあるとする説)を唱え、また知と行(実践)は本来は一つのものであり、真の知は必ず行(実践)をともなうという「知行合一」を唱え、実践的な道徳を説いた。

 陽明学は、一時盛んとなったが、王陽明の死後は次第に実践性を失っていった。日本にも大きな影響を及ぼし、江戸時代に中江藤樹(1608〜48)や熊沢蕃山(1619〜91)などの有名な学者が出た。 

 明末から清初にかけては、朱子学や空論化した陽明学の末流に対して、確実な文献に典拠を求めて儒学の古典を究明しようとする考証学が盛んとなり、明末清初には考証学の先駆者とされる顧炎武(1613〜82)や黄宗羲(1610〜95)をはじめ多くの学者が出た。

 明代文化の特色の一つは、実用や実践を重んじる実学(経世実用の学)が盛んとなったことである。実学は実際の生活・社会に役立つ学問の意味で、明末には多くの技術関係書が刊行された。

 李時珍(1523頃〜96頃)が著した『本草綱目』(1596年刊)は、古来の薬草に関する書を中心に、1898種の薬物品種とその処方を集大成した薬物に関する総合書で、日本でも広く読まれ、薬物学の標準書となった。

 宋応星(1590頃〜1650頃)の著した『天工開物』(1637年刊)は、産業技術の図版入り解説書である。産業部門を農業・織物・染色・製塩・精糖・陶磁器・鉱業・醸造など18部門に分類して、その製造・生産過程を多くの図版を使用して解説している類をみない書である。

 徐光啓(1562〜1633、明末に内閣大学士にまでなった政治家であり、早くからマテオ=リッチら宣教師と親しくし、自ら洗礼を受けて入信した政治家・学者)の著した『農政全書』(徐光啓死後の1639年刊)は、古来の農学書の諸説を12部門に分類・整理して記述した農政関係の総合書である。

 また同じく徐光啓がアダム=シャールらイエズス会宣教師の協力を得て西洋暦法によって編纂した『崇禎暦書』(1634年刊)など多くの技術関係書が刊行された。

 明代には宋・元以来の庶民文化も栄え、小説では「四大奇書」と呼ばれる『三国志演義』・『水滸伝』(北宋末に梁山泊を根拠地として活躍した義賊の豪傑108人をめぐる武勇物語)・『西遊記』・『金瓶梅』が現在の形にまとめられた。

 戯曲では、夢に見た書生に恋こがれて死んだ娘が再生して書生と結ばれるという伝奇的な『牡丹亭還魂記』が代表作とされている。

 絵画では、文人画系の南宗画(南画)が明代に最盛期を迎えた。南画は、細い・柔らかい描線を重ねて山水を水墨で描く画法で、董其昌(1555〜1636)によって大成された。これに対して北宗画(北画)は、院体画系で、仇英(16世紀前半)らが出て栄えた。

 工芸では、コバルトを用い、青色で絵を焼き付けた陶磁器である染付や赤・緑・黄・黒・青などの釉薬(うわぐすり)で文様を描いて焼いた陶磁器である赤絵(特に赤が多く用いられたので赤絵と呼ばれた)などすぐれた陶磁器が景徳鎮などで作られた。

 清は、中国人を統治するにあたり、強硬策(威圧策)と懐柔策を併用したが、懐柔策の一つとして、学術を奨励し、漢人の学者を優遇して多くの大編纂事業を行った。代表的なものとして『康煕字典』・『古今図書集成』・『四庫全書』などがある。

 『康煕字典』(1716年完成)は、康煕帝の命によって作られた漢字字書で、4万2000余字が収められている。古典の用例もあげた代表的な漢字字書とされ、日本の漢字辞典の多くは、この『康煕字典』をもとに編纂されている。

 『古今図書集成』(1725)は、康煕帝の命で編纂に取りかかり雍正帝の時に完成した大部の類書(百科事典)である。1万巻から成り、古今の典籍から記事を抜き出して編纂されている。

 大編纂事業の中で最も有名な『四庫全書』(1781)は、乾隆帝の命によって多くの学者が動員され、10年の歳月を要して1781年に完成した一大叢書である。経(儒教)・史(歴史)・子(思想)・集(文学)の4部に分類して編纂され、3462種7万9582巻からなる『四庫全書』は、当時現存した古今の書物を集めて、定本を作り、清書させたものであるが、同じものを7部作り、4部は紫禁城・円明園・熱河の離宮・瀋陽の宮城に置き、残りの3部は揚州・鎮江・杭州に置かれたが、それに要した労力はどれほどのものであったか想像も出来ない。

 明末に始まった考証学は、清に入っても多くの学問分野でますます盛んとなり、清代には銭大マ(1728〜1804)などの優れた学者をうんだ。銭大マは、清代考証学の大家で、特に歴史学の考証に優れていた。

 清末には、考証学を批判し、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊び、現実の問題に注目しようとする公羊学派(くようがくは)がおこった。変法運動を行った康有為(1858〜1927)は公羊学派の学者でもあった。

 庶民文化は清代にも栄えた。小説では『紅楼夢』・『儒林外史』・『聊斎志異(りょうさいしい)』などが有名である。

 『紅楼夢』は、曹雪芹(1724頃〜63)の作品で、乾隆帝時代に書かれた。貴族の家に生まれた賈宝玉と彼を取りまく多くの佳人との恋愛を、栄華を極め・没落をたどる貴族の豪華な家庭生活を背景に描いた、日本の『源氏物語』に比される作品である。

 『儒林外史』の著者・呉敬梓(1701〜54)は、科挙のやり方に義憤を感じて生涯科挙を受験しなかった。『儒林外史』は、当時の官界の腐敗を知識人(儒林)の立場から暴露し、科挙制度を諷刺した作品で、『紅楼夢』と並ぶ口語小説の傑作である。

 『聊斎志異』(1766)は、蒲松齢の作品で、431編の文語短編小説集で、民間説話に取材した雑記・奇聞・伝奇小説から成る作品である。江戸時代の上田秋成(1734〜1809)の『雨月物語』の中の数編は『聊斎志異』の話をもとに作られている。

 戯曲では、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを主題とした『長生殿伝奇』、明末の文人と名妓の恋愛を中心に明の滅亡を描いた史劇である『桃花扇伝奇』などが有名である。特に『長生殿伝奇』は、中国の戯曲中の傑作とされている。

 絵画では、明代に引き続いて南宗画(南画)が盛んで、後にはヨーロッパ絵画の明暗法や遠近法などの描法が取り入れられた。 




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