1 中国文化圏の拡大

5 宣教師の活動と文化の交流

 ポルトガル人は、1517年にマカオに来航し、1557年にマカオ居住権を認められた。この頃からポルトガル人の貿易船に便乗して、キリスト教宣教師も来航して中国伝道を行った。特にイエズス会の布教活動は活発で、フランシスコ=ザビエル(シャヴィエル)(1506頃〜52)は、日本での布教活動の後に中国伝道をめざして広州港外に至ったが、同年その地で病死した。

 その後、マテオ=リッチを初め多くのイエズス会宣教師が来航し、中国への布教に努めた。

 イタリア出身のイエズス会宣教師、マテオ=リッチ(1552〜1610)は、東方布教を志してインドのゴアに赴き(1578)、中国布教の使命を帯びてマカオ・広東省・南京を経て北京に至った(1601)。万暦帝に時計などを献上して北京に天主堂を建てることを許された。彼の得た信者は10年間で約200人といわれ、その中には徐光啓(1562〜1633)のような高官もいた。

 マテオ=リッチは、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、中国の官人服を着用し、中国語を話した。『天主実義』(1595年刊、カトリックの教義の漢訳本)やエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学の前半部の漢訳である『幾何原本』(1607年刊)などを翻訳した。特に彼が作成した『坤輿(こんよ)万国全図』(1602年刊、坤輿は大地の意味)は中国最初の世界地図で、中国人のみならず、日本人にも大きな影響を与えた。マテオ=リッチは中国の布教とヨーロッパの諸学問の伝授に活躍したが、北京で没し、ゴアに葬られた。

 アダム=シャール(1591〜1666、中国名は湯若望)は、ドイツのイエズス会宣教師で、1622年に中国に渡来し、崇禎帝の命により、徐光啓らと『崇禎暦書』の編纂を行ったり、大砲の鋳造を行った。明が滅ぶと清に仕えて天文台長官となったが、後に失脚し、北京で亡くなった。

 イエズス会宣教師は、清代になっても活躍し、ベルギー出身のフェルビースト(1623〜88、中国名は南懐仁)は、1659年に中国に到着して清朝に仕え、アダム=シャールを助けて天文台の仕事につき、天文観測や修暦の仕事にあたった。三藩の乱がおこると大小120門の大砲を鋳造し、その功により工部侍郎に任命された。

 フランスのイエズス会宣教師ブーヴェ(1656〜1730、中国名は白進)は、ルイ14世の命で中国に派遣され、康煕帝に仕えて幾何学を進講し、また康煕帝の命で10年余りを費やして大規模な実測をもとに中国最初の全土の実測地図である『皇輿全覧図』(1718年に完成)を作成した。同じくフランスのイエズス会宣教師レジス(1663〜1738、中国名は雷孝思)もブーヴェらとともに『皇輿全覧図』の作成に従事した。

 またイタリアの出身のイエズス会宣教師カスティリオーネ(1688〜1766、中国名は郎世寧)は、1715年に北京に渡り、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3代に仕えた。彼は中国の画家たちに西洋の油絵画法や明暗法・遠近法などの写実的な画法を教えるとともに、自らは中国の画法を取り入れて肖像画や馬の絵などを描き、中国絵画に大きな影響を与えた。

 カスティリオーネは円明園の設計・建設にもあたった。円明園は北京郊外の北西約10kmの所に作られた清の離宮で、雍親王(後の雍正帝)が創建し、乾隆帝が増改修した。中国最初の西欧風の噴水やカスティリオーネが設計したバロック式と中国式を融合した宮殿・庭園が造られ、中国で最も美しい建築物・庭園といわれたが、1860年アロー戦争の際、英仏連合軍によって掠奪・放火・破壊され廃墟と化した。

 イエズス会宣教師たちは自ら姓名を中国風に改め、中国の言葉を使い、中国風の服装を身につけて中国社会に入り込んでいった。また布教にあたっては中国人の慣習・伝統的儀式を尊重し、孔子の崇拝や先祖の祭祀などの典礼(一定の儀式、儀式作法)を認めた。

 しかし、後から中国に来たフランチェスコ修道会やドミニコ修道会などは、イエズス会のそのような布教方法は神への冒涜であるとして攻撃し、その非をローマ教皇に訴えたので、論争は教皇庁にまで波及し、結局教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定した(1704)。この決定に怒った康煕帝は、イエズス会宣教師以外の布教を禁止し、典礼を否認する派の宣教師の入国と伝道を禁止して追放した(1706)。

 さらに雍正帝は、1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止し、宮廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放した。この時は日本ほどの迫害はなく、殉教はおこらなかったが、以後布教は途絶えた。しかし、18世紀末の嘉慶帝以後は取り締まりが厳しくなった。

 そして、乾隆帝は、1757年に外国との交易港を広州1港に限定した。

 キリスト教の布教のために来航した宣教師たちは、さまざまなヨーロッパ文化を中国に紹介したが、その一方で科挙制や中国の文化がヨーロッパに紹介され、17世紀以後フランスを中心とする西ヨーロッパ各国で中国の文物に対する興味・関心が高まった。   




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