2 中国の隣接地域の変遷

1 台湾

 台湾は、清代以後の名称で、隋から元までは琉球と呼ばれていた。原住民はインドネシア系の高砂(高山)族で、元が遠征したこともあるが、台湾は長い間中国文化圏の外にあって、中国との関係はうすかった。

 台湾は、16世紀頃から海賊の根拠地となり、対岸から中国人が移住し、ようやく西海岸地方が開け始めた。

 1624年にオランダ人が南部を占領し、ゼーランディア城を築いた。オランダ人は、同じ頃北部を占領したスペイン人を台湾から駆逐し(1642)、以後約20年間にわたって台湾を支配した。

 1661年には、鄭成功がオランダ人を駆逐し、鄭氏は以後3代にわたって台湾を根拠地として清に抵抗したが、清は1683年に鄭氏一族を滅ぼし、台湾を直轄領とした。これにより台湾は初めて中国の支配下に入ることとなった。

 以後、福建・広東方面からの中国人移住者が次第に増えて開発が進んだが、治安が悪く、絶えず反乱が起こった。しかし、19世紀後半になると列強の進出にともない、台湾は国際的に注目されるようになった。

2 モンゴル・トルキスタン・チベット

 元の最後の皇帝順帝(位1332〜1368)は、明軍に追われて応昌(上都の北)で病死した。その子昭宗は、モンゴル高原を確保してカラコルムに本拠を置き、北元(1371〜88)を建てて元の復興をはかった。昭宗の死後、弟のトグス=テムルが即位したが(1378)、明軍は満州を征服し(1387)、さらに翌年北元軍を破って皇后・皇子ら8万人を捕らえ、北元に壊滅的な打撃を与えた。トグス=テムルもカラコルムへ逃げる途中で殺され、北元は滅び(1388)、以後はタタール部(韃靼、だったん)と呼ばれるようになった。

 その後、モンゴル高原では、東方のタタール部と西北モンゴルのオイラート部がモンゴル高原の支配をめぐって激しく対立した。

 オイラート部は、西北モンゴルに拠るモンゴルの一部族で、チンギス=ハンに服属したが、元の滅亡で台頭し、エセン=ハンのもとで強大となった。

 エセン=ハン(?〜1454)は、父の死後(1439)、その跡を継いで全モンゴルの指導者となり、四方に勢力を拡大し、東は満州の女真を討って朝鮮に迫り、西は西トルキスタンにまで進出した。

 明が朝貢貿易を制限すると、明に侵入して土木堡で英宗を捕らえた(土木の変、1449)。その後、北元の皇帝の子孫を殺し(1451)、1453年には自ら大ハンの位について名実ともにモンゴルの支配者となったが、翌年部下に殺された。

 エセン=ハンの死後、オイラート部は次第に衰え、かわってダヤン=ハンのもとでタタール部(韃靼)が強力となった。

 ダヤン=ハン(1468〜1519)は、チンギス=ハンの後裔で、父の死後即位し(1487)、その後内モンゴルを統一し(1510)、各地に諸子を分封して支配させた。後に子孫は全モンゴルに広がっていったので、後世のモンゴル貴族の大部分はダヤン=ハンを祖としている。タタール部は、ダヤン=ハンの孫のアルタン=ハンの時代に全盛期を迎えた。

 アルタン=ハン(1507〜82、位1551〜82)は、内モンゴルのトメト部に分封され、帰化城(現在のフフホト)を本拠地として勢力を拡大し、1520年代以降連年にわたって長城一帯を荒らし回った。1540年代には明への侵入をますます激化させ、1542年には山西省に侵入して20余万人を殺し、家畜200万頭を奪った。そして1550年にはついに北京を5日間にわたって包囲し、付近を荒らし回った。しかし、その後アルタン=ハンの軍は西方に向かい、オイラート部を討ってカラコルムを奪回し(1552)、さらに青海・チベットに侵入した。

 アルタン=ハンは、チベットに侵入した時に(1573)、ラマ教に接して帰依し、青海に第3代ダライ=ラマを迎えた(1578)。

 ラマ教は、元朝の帝室の保護を受けて栄えたが、ラマ教を信じたのは中央の上層のモンゴル人だけで、モンゴルの一般住民にはほとんど普及していなかった。また元朝で栄えたのは、ラマ教の中の紅帽派(紅教)であったが、アルタン=ハンが帰依したのは黄帽派(黄教)であった。

 ダライ=ラマ3世は、東モンゴル各地を回り、至る所で帰依を受け、黄帽派を広めた。またアルタン=ハンの曾孫が第4代ダライ=ラマになったので、以後ラマ教はモンゴル人の間に広く普及し、戦闘的なモンゴル人が平和的な遊牧民に変わる原因になったといわれている。

 清が興ると、太宗(ホンタイジ)は内モンゴルのチャハル部を服属させたが(1635)、外モンゴルのカルカ部は独立を維持した。

 西北モンゴルに拠ったオイラート部は、エセン=ハンの死後(1454)次第に衰え、またタタール部のアルタン=ハンに討たれて(1552)さらに衰えたが、17世紀に入るとオイラートの一部族でシル川流域を本拠とするジュンガル部が強大となり、ガルダン=ハンの時に最盛期を迎えた。

 ガルダン=ハン(1644〜97、位1671〜97)は、初めチベットのラサのダライ=ラマのもとで僧として修行していたが、兄の死後(1671)ダライ=ラマの援助で帰国して即位すると、たちまち部族を統一して全オイラート部の指導者となり、東トルキスタン(回部)を服属させ、青海・チベットも勢力下に置いた(1677)。 

 ガルダン=ハンは、さらに全モンゴルを統一しようとして外モンゴルのカルカ部に侵入し、これを撃ち破って外モンゴルも支配下に置いた(1688)。カルカ部は清朝に保護を求め、以後清朝に服属することになった。

 康煕帝は、北京を目指して進攻するガルダン=ハンを内モンゴルで撃破した(1690)。敗れたガルダン=ハンは再起をはかったが、漠北に親征した康煕帝に再びクーロン(現在のウランバートル)で壊滅的な打撃を受け(1696)、翌年自殺した。

 雍正帝は、オイラート部がダライ=ラマを扇動してチベットで反乱を起こさせると、これを平定してチベットに大臣を駐在させた(1724)。

 乾隆帝は、ジュンガル部の内紛に乗じてこれを征服し(1758)、その領域を準部とした。翌年には回部(天山山脈以南にすむウイグル人の居住地を指した呼称)を平定し(1759)、準部と回部を併せて新疆(新領土の意味)と呼ぶようになった(新疆省の設置は1882年)。

 チベットでは、7世紀に建国された吐蕃が9世紀後半頃から分裂し、以後数世紀にわたって諸侯が割拠する情勢となった。

 チベット仏教(ラマ教)は、元朝で保護され、明代になっても優遇されて堕落したので、14世紀末にツォンカパが現れると堕落したラマ教を改革して黄帽派を開いた。

 ツォンカパ(1357〜1419)は、青海に生まれ、7歳で出家し、16・17歳頃にチベットに赴いて諸寺院で学んだが、旧来のラマ教の堕落を激しく非難し、36歳頃にそれまでのラマ教の紅帽派(黄帽派成立以前のラマ教の諸宗派の総称)を改革して、飲酒・妻帯の厳禁など、厳しい戒律と徳行を主張して黄帽派を開いた。

 ラマ教(黄帽派)の教主はダライ=ラマと呼ばれる。ダライは「海」、ラマは「師」の意味で、ダライ=ラマはチベットにおける宗教・政治の最高権力者である。

 ラマ教ではダライ=ラマは活仏と考えられた。活仏とはラマ教の高僧の生まれ変わり、いわゆる転生ラマを言う。黄帽派では妻帯を厳禁したので、この活仏を教権継承の方法と結びつけて制度化した。

 ダライ=ラマが、生前に予言した転生の方角にその後1年以内に生まれた幼児の内から、神託や夢占い・故人の言行・遺品などを頼りに条件の合う者を選んで転生者とした。初代のダライ=ラマは、ツォンカパの弟子で、以後のダライ=ラマもツォンカパの弟子の転生者として継承されてきた。

 現在のダライ=ラマは、14世で、1959年のチベット反乱の際インドに亡命し現在に至っているが、1989年にはノーベル平和賞を受賞している。

 またダライ=ラマに次ぐラマ教の副教主は、パンチェン=ラマ(偉大なる学僧の意味)と呼ばれている。

 清朝がチベットを平定したのは、康煕帝の晩年のことである。自殺したガルダン=ハンの甥が再びオイラート部を統一し、チベットに侵入してラサを占領した。この報に接した康煕帝はチベットに遠征軍を派遣し、ジュンガル兵を追放してチベットを平定した(1720)。

 さらに雍正帝は、青海のオイラートがダライ=ラマを扇動して反乱を起こさせると、これを平定し、ラサに大臣を駐在させた(1724)。駐チベット大臣はダライ=ラマを監督するだけで、チベットをダライ=ラマを利用して間接的に支配した。

 しかし、乾隆帝はチベットで反乱が起き、駐チベット大臣が殺されると、反乱を鎮圧し、駐チベット大臣に全チベットの政治・軍事の権力を与え、チベットに対する清の支配権を確立した。    




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