2 中国の隣接地域の変遷

3 朝鮮

 高麗(918〜1392)は、13世紀にモンゴルの侵入を受け、1259年以来モンゴル(元)に服属し、その属国となった。また14世紀に入ると倭寇の侵入が激しくなり、高麗はその対策に苦しみ、国力はますます衰退した。

 高麗の恭愍王(高麗第31代の王、位1352〜74)は、即位すると親元勢力を粛清し、元に反旗をひるがえして朝鮮北部を奪回した。

 1368年、中国で明朝が成立し、元をモンゴル高原に退けると、恭愍王は明に属することを表明したが、宦官に殺された。次王辛ぐう(位1374〜88)が即位すると、国策は一変し、高麗は再び元(北元)に服属することになった。

 高麗は、1388年に大軍を発し、明との戦いを始めた。このとき李成桂も数万の軍を率いて遼東に向かった。しかし、高麗軍には厭戦気分が強く、逃亡する者が多かった。

 明と戦うことに反対であった李成桂は、進軍の中止を決意し、軍を返して首都開城に入り、クーデターを断行して国王を廃し、その子の辛昌(位1388〜89)を立て、親元派の高官を追放した(1388)。

 李成桂(太祖、1355〜1408、位1392〜98)は、高麗に仕えて武将となり、元末に起こった紅巾の乱の一部が2回にわたって高麗に侵入すると(1359・1361、2回目の時は開城を陥れた)、紅巾軍の撃退に大功を立てて頭角をあらわした。また当時激しくなった倭寇の討伐にも功績をあげた。特に1380年に半島南部深く侵入してきた倭寇と戦い、これを大いに破ると彼の名声はますますあがった。

 勢いの盛んな新興の明と結んで元の圧迫を排除するという親明派の中心人物の一人であった彼は、明との戦いの途中で軍を返し、クーデターによって高麗王を廃し、その子辛昌を立てて親元派の高官を追放し、政治・軍事の実権を握った(1388)。

 政治の実権を握った李成桂は、親明政策を執るとともに、田制の改革を断行した。まず検地を実施し、公私の古い土地台帳を焼却して新たに科田法を実施した(1391)。

 科田法は、高麗時代の王侯・貴族・高官らの私有地であった農荘(私有地、荘園)を没収し、王族・官僚にはその地位に応じて科田を給し、兵士には軍田を支給する田制である。

 この間、李成桂は国王の辛昌を廃し、恭譲王(高麗第34代・最後の王、位1389〜92、94年に殺された)を擁立したが、田制の改革に成功した彼は部下に推されて、恭譲王にかわって国王の位につき、李氏朝鮮(李朝、1392〜1910)を建国した。

 太祖(李成桂、位1392〜98)は、即位すると国号を朝鮮と改め(1393)、翌年には漢陽(ソウル)に遷都した。また高麗時代の仏教に代わって儒教(朱子学)を官学とし、明制にならって官僚制を強化した。太祖は在位7年で、子の定宗に譲位し、定宗は在位2年で弟の太宗に代わった。

 太宗(位1401〜1418)は、太祖をたすけて建国に大功があった。即位後は王権の強化をはかり、李朝の支配体制を確立した。官制を整備し、学問を奨励し、世界史上最初の銅活字を作らせて書物の印刷を盛んにした。太宗は在位18年で、子の世宗に譲位した。

 李朝第4代の王、世宗(位1418〜50)は若い頃から英明で学を好み、在位32年間を通じて常に政治に意を用いたので国内はよく治まった。世宗は李朝第1の名君とされ、韓国の1万ウォン紙幣にその肖像が印刷されている。

 世宗の功績のうち最も重要なことは、訓民正音(ハングル)の制定(1446年公布)である。訓民正音は音標文字で、母音・子音計28字(現在は母音10字、子音14字の24字)の組み合わせで出来ている朝鮮文字である。

 また内政では、田制の改革・農業の奨励・儒教の保護と仏教の抑圧・銭貨の鋳造とその通用などに努め、対外的には倭寇の本拠地である対馬の攻撃などを行った。

 世宗の後、文宗・端宗を経て世祖(李朝第7代の王、位1455〜68)が即位した。世祖は甥の端宗から王位を奪って即位したが、在位13年間、文武両面に優れた業績を残した。

 李朝は、太宗から世祖に至る約70年間に最盛期を現出した。

 李朝の政治を動かしたのは、高麗に始まり李朝で確立した政治的・社会的特権階級である両班(やんばん)であった。両班の上層は大土地所有者で官僚、中層は官僚、下層には官僚でない中小土地所有者が多かった。

 李朝の官僚は、文班(東班)と武班(西班)に分けられていたので、これを併せて両班(両は二つの意味)といった。両班は種々の特権を持ち、官職や官僚を独占した。李朝の官僚はその地位に応じて一定の土地を与えられた。両班は儒教の教養を身につけて科挙に合格して官僚となり、立身出世して土地を手に入れることを目的とした。

 李朝では15世紀末頃から16世紀中頃にかけて、「士禍」と呼ばれる党争が激しくなった。士禍は、新興の士林(両班の地方新興勢力で、儒教振興策に乗じて中央に進出した)と特権官僚(守旧派)の間に起こった党争で、士林側がしばしば弾圧された。

 士林派と守旧派間の激しい抗争の中で、有力な大官のもとに多くの人々が結集して「朋党」が組織され、16世紀後半には官界に2つの党派「東人」と「西人」が生まれ、あらゆる官僚・士林はどちらかの派に属して激しい党争を展開した。

 李朝内で激しい党争が展開されていた時期に最大の国難が降りかかってきた。豊臣秀吉の朝鮮侵略である。

 壬辰の倭乱(1592〜93、日本では文禄の役)と丁酉(ていゆう)の倭乱(1597〜98、日本では慶長の役)によって、朝鮮全土が戦場と化し、日本・朝鮮・明の大軍が激突し、都市も農村も全く荒廃し、李朝は急速に衰退に向かっていく。また明にとっても朝鮮へ大軍を送ったことから財政窮乏がますます激しくなり、明滅亡の大きな原因となった。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、水軍(海軍)を強化して日本水軍を徹底的に撃破したのが名将李舜臣(1545〜98)である。

 李舜臣は有名な亀甲船(甲板を覆い、船底にひそんだ兵士が火砲を放つ、亀の甲羅の形をした装甲軍艦)を主力とした水軍を率いて奮戦し、日本水軍を撃破して日本の補給を断ち、日本の戦争継続を断念させた。しかし、李舜臣は最後の海戦で流れ弾に当たって戦死した。国民的英雄である李舜臣の像は各地に建てられている。  

 豊臣秀吉の侵略は、李舜臣の活躍・明の援軍・民衆の義兵の活躍によって何とか切り抜けたが、李朝ではその後も党争が続き、また16世紀後半以後中国東北地方で女真族が台頭すると、女真族・清軍の侵入に苦しむこととなり、李朝は1636年に清に服属した。 

4 琉球

 琉球(現在の沖縄)は、14世紀中頃に中山・北山・南山の3王国に分立し、それぞれ明に朝貢していた。

 1429年に、中山(ちゅうざん)王の尚巴志(1372〜1439)が3王国を統一し、首里に王府を置き、琉球王国を建設した。

 1609年に薩摩の島津氏の軍が侵入し、首里城を陥れて国王を捕らえた。以後琉球は島津氏に服属したが、中国(明、後には清)への朝貢は続いた。    




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