2 中国の隣接地域の変遷

5 東南アジア諸国

 ヴェトナムでは、1400年に陳朝(1225〜1400)が、権臣の胡氏によって簒奪された。

 永楽帝はヴェトナムの内政に干渉し、1406年に20万の大軍を送り、胡氏父子を捕らえた。胡朝(1400〜1407)は、わずか7年で滅び、ヴェトナムは明の支配下に置かれた(1407〜 1420)。

 永楽帝は、ヴェトナムの漢化政策を推進し、ヴェトナム固有の風俗を捨てて中国風に従うことを強制した。また塩を専売として重税を課し、象牙・犀角などの珍貨の収奪を行ったので、ヴェトナム各地で反明反乱が頻発した。

 黎利(1384〜1433)は、陳朝の武将であったが、明のヴェトナム支配に抵抗して挙兵し(1418)、長期にわたるゲリラ戦を展開した。永楽帝の死後、一挙に攻勢に出て明軍をヴェトナムから駆逐し(1427)、翌1428年にハノイで即位し、国号を大越と号した。これがヴェトナム史上最も長く続いた黎朝(1428〜1527、1532〜1789)である。

 黎利(太祖、位1428〜33)は、田制・税制・地方制度などの改革を実施し、儒学(朱子学)を奨励し、また明との関係修復にも努めた。黎利は中国の圧政からヴェトナムを解放した民族独立の英雄として、現在も国民的尊敬を集めている。

 黎朝第5代の王、黎聖宗(位1460〜97)は国内では中央集権体制を確立し、対外的にはチャンパー(占城)征服に乗り出し、チャンパーを滅ぼしてこれを併合した(1471)。これによって領土は一気に中・南部ヴェトナムにまで拡大し、黎朝の最盛期を現出した。しかし、黎朝は聖宗の死後、急速に衰退し始め、各地に反乱が頻発するようになった。

 このため、内乱鎮圧に功績をあげた権臣の莫氏が軍事権を握り、1527年には恭帝(前期黎朝第11代の王)から王位を奪い、莫氏は以後65年間にわたってヴェトナムを支配した。

 しかし、莫氏の勢力はハノイ周辺に限られていたので、まもなく南方にこれに対抗する勢力が生まれた。初め黎朝の旧臣である阮氏が莫氏に殺された黎昭宗(黎朝第10代の王)の子を擁立して莫氏に対抗したが(1532)、その後、黎朝擁立派の実権は武人の鄭氏に移った。

 鄭氏は、黎氏を擁立して莫氏と抗争を続け、1592年についにハノイを奪い、莫氏(莫氏は5代続いた)を殺して、黎朝を再興した。黎朝は65年ぶりに復興したが、黎朝(後期黎朝、1532〜1789)の王は名目的存在にすぎなくなり、政治の実権は武人の鄭氏に握られた。

 黎朝擁立をめぐる主導権争いに敗れた阮氏は、初め鄭氏に従属していたが、中部ヴェトナムのユエに移り、やがて独立して鄭氏に対立する勢力となり、さらに南ヴェトナムへ領土を拡大していった(広南国)。

 こうして黎朝(後期黎朝)は、北の鄭氏と南の阮氏の南北に事実上分裂することになった。当時ヴェトナムを訪れたヨーロッパ人は、鄭氏の支配領域を「トンキン」、阮氏の支配領域を「コーチシナ」と呼んでいる。南北分裂は、以後2世紀半に及んだが、1789年に黎朝は西山党の阮氏によって滅ぼされた。

 ヴェトナム中部の西山(タイソン)村出身の阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟(3兄弟の阮氏と「広南国」の阮氏とは全く関係がない)が、黎朝の衰退に乗じて、1773年に反乱を起こした。この反乱は広範な社会層を巻き込んで大反乱に発展した。

 西山党は、まず「広南国」の阮氏を滅ぼし(1777)、次いでハノイに侵入して鄭氏を滅ぼした(1786)。この間、阮文岳は領土を3分して自らは中央皇帝と称し(1778)、西山(タイソン)朝(1778〜1802)を開いた。

 黎朝最後の(後期黎朝第17代の王)愍宗(位1786〜1789)は、清朝に介入を要請し、清は大軍を送ったが西山党の軍に大敗した。志敗れた愍宗は北京に逃れ、約350年間続いた黎朝はついに滅亡した。

 ビルマ(ミャンマー)では、11世紀にアノーヤター(アノーラター、位1044〜77)によってビルマ最初の統一国家であるパガン朝(1044〜1287)が建てられた。

 アノーヤターは、古くから海岸部に居住していたモン人のタトゥンを征服し、上座部仏教(小乗仏教)の教典とともにモン文化を移入した。またモン文字を改良してビルマ語を書き写すようにするなどモン人の高度な文化を受け入れてパガン朝の文明化を進めた。

 パガン朝では、12世紀後半頃からモン文化は急速に衰微し、13世紀になるとビルマ独自の文化が発達していった。しかし、約250年間続いたパガン朝はフビライの大軍の侵入を受けて滅亡した(1287)。

 ビルマではパガン朝の滅亡後分裂状態が続き、その間シャン人(タイ人)に圧迫されてきたが、16世紀前半にはトゥングー朝が成立した。

 ダビンシュエティ(位1531〜50)は、15世紀末頃からシャン人の勢力が衰え始めると、下ビルマのトゥングーのビルマ人を結集し、まず南方に勢力を伸ばし、次いで上ビルマの地を併せてトゥングー朝(1531〜1752)を樹立した。

 トゥングー朝は、16世紀後半にはペグーを都として栄えたが、17世紀前半になるとシャン人制圧に力を注ぎ、都を上ビルマのインワに遷したので、南方のモン人勢力が再び台頭した。

 モン人は、南部を制圧し、次いでインワを攻略してトゥングー朝を滅ぼした(1752)。しかし、モン人のビルマ支配はつかの間で、アラウンパヤー(1714〜60)がモン人支配に対して反乱を起こし(1752)、ビルマ王を称してモン人を撃退し、敗走するモン人を追ってペグーを攻略し(1757)、モン人の支配は短期間で終わった。

 アラウンパヤーのよって創始されたコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752〜1885)は、アラウンパヤーの子(第3代の王)の時に、アユタヤを攻略して徹底的に破壊し、400年以上続いたアユタヤ朝を滅ぼした(1767)。なおコンバウンはアラウンパヤーの生地の古名である。

 タイ人は、もと四川・雲南に居住していたが、8世紀頃を中心に長期にわたって南下した。特に13世紀にモンゴル人の雲南侵入で南下が活発となった。

 インドシナ半島に南下したタイ人は、タイ北部に諸小国家をつくり、真臘に従属していたが、13世紀中頃に真臘の要地であったスコータイを攻略し、タイ最初の統一王朝であるスコータイ朝(1257〜1350)を建国して、メナム川流域を支配した。

 スコータイ朝は、第3代の王ラーマ=カムヘン(位1275/77〜1317)の時に最盛期を迎えた。タイ史上最も傑出した王とされるラーマ=カムヘン大王はクメール文字を改変してタイ文字を制定した(1283)。また13世紀末以後、元に朝貢し、中国文化を輸入した。

 またスコータイ朝では上座部仏教(小乗仏教)が栄えたが、14世紀中頃に南方に興ったアユタヤ朝に従属した。

 スコータイ朝の領主であったラーマ=ティボディ(ラーマ=ティボディ1世、位1350〜 69)は、アユタヤに移って勢力を拡大し、スコータイ朝の衰退に乗じてその領土の大半を領有してアユタヤ朝(1350〜1767)を創始した。

 アユタヤ朝は、1432年には真臘からアンコールを奪い、15世紀後半には中央集権体制を確立して栄えたが、ビルマにトゥングー朝が成立すると(1531)、ビルマに圧迫され、首都アユタヤをビルマに奪われ(1569)、以後ビルマに臣従するようになった。

 ビルマ占領軍を撃退し、アユタヤ朝をビルマから解放したのが、ナレースエン大王(位1590〜1605)である。ナレースエン大王から約1世紀の間、アユタヤ朝の領土はタイ史上最大となり、周辺諸国や中国・日本・ヨーロッパ諸国との通商が盛んとなり、アユタヤ朝は最盛期を迎えた。

 日本人の山田長政(?〜1630)が活躍したのもこの時期である。山田長政は駿河の人で、1612年頃タイに渡り、アユタヤの日本町(最盛期には邦人の数は1500人に達したと言われている)の長となり、のちリゴールの太守として活躍したが、政争で毒殺された。

 18世紀に入るとアユタヤ朝の国力は衰え、ビルマのコンバウン(アラウンパヤー)朝によって滅ぼされた。

 アユタヤ朝の滅亡後、トンブリー朝(1767〜82)を建てたタークシンが精神錯乱に陥ったので、もとアユタヤ朝の武将であり・タークシンの腹心の部将であったチャクリが推されて即位してチャクリ朝(バンコク朝、1782〜現在に至る)を建てた。

 チャクリ(1735〜1809)は即位するとラーマ1世(位1782〜1809)と称し、都をトンブリーからバンコクに遷した。ラーマ1世は、ビルマ軍を撃退し、カンボジアを圧迫し、のちマライ半島にも進出して領土を拡大し、国内では中央集権体制を確立した。

 ラオスでは、ラオ人によるランサン王国(14〜18世紀)が成立したが、周辺のヴェトナム・ビルマ・タイに圧迫を受けた。16世紀に仏教文化が栄え、17世紀には繁栄したが、18世紀後半に王位継承問題から3王国に分裂した。

 諸島部では、スマトラ南部から興ったシュリーヴィジャヤ(7世紀から14世紀)が、10世紀には最盛期を迎えたが、マジャパヒト王国の勃興によって14世紀には衰えた。

 マジャパヒト王国(1293〜1520頃)は、ジャワ中・東部を中心に栄えた最後のヒンドゥー教の王国である。

 マジャパヒト王国の初代の王となったヴィジャヤ(位1293〜1309)は、シンガサーリ朝 (1222〜92)の王クルタナガラ(フビライの使者を追い返して、元のジャワ遠征の原因を作った王)の子で、シンガサーリ朝の末期に起きた反乱で逃亡したが(1292)、元軍の支持を得て王位を回復し(1293)、次いで元軍を撃退してマジャパヒト王国を建国した。

 マジャパヒト王国は、14世紀後半に最盛期を迎えたが、15世紀後半からイスラム教徒の侵入で衰え、16世紀の初めにイスラム勢力の勃興で滅亡した。

 マジャパヒト王国の滅亡後、ジャワ島では、東部に建国されたヒンドゥー教国であるマタラム王国(16世紀末〜1755)、西部に興ったヒンドゥー教国であるバンテン王国(1527頃から1813)の勢力が強大となった。

 また、この間マライ半島西南部では、東南アジア最初のイスラム国家であるマラッカ王国(14世紀末から1511)が大勢力となり、海上貿易の中心として栄えた。 

6 日本

 鎌倉幕府の第8代執権の北条時宗(1251〜84)は2回にわたる蒙古の襲来(1274、1281)を撃退したが、鎌倉幕府はまもなく倒れ、南北朝の争乱期(1336〜92)となり、この頃から倭寇の活動が活発となった。

 室町幕府の第3代将軍足利義満(1358〜1408)が勘合貿易を始めると、倭寇は一時下火となったが、応仁の乱(1467〜77)の頃から再び猛威をふるった。

 16世紀になると、ポルトガル人の来航(1543)を機に、海外発展の機運が高まり、南蛮貿易や朱印船貿易が発展した。また日本人の海外進出が盛んとなり、日本人の活動は東南アジア各地に及び、タイ・フィリッピン・ヴェトナム・カンボジア・ビルマなどに日本人町が出来た。

 また豊臣秀吉の2回にわたる朝鮮出兵(1592〜93、97〜98)は、日本・李氏朝鮮・明の政治・社会に大きな影響を及ぼした。

 17世紀初めに、江戸幕府が成立すると(1603)、幕府はキリスト教を禁止し、鎖国政策を実施し(1639年完成)、以後は中国・朝鮮・オランダとのみ交易を行った。




目次へ戻る
次へ