3 トルコ世界とイラン世界

2 オスマン帝国の発展

 オスマン帝国(オスマン=トルコ帝国)(1299〜1922)を建国したオスマン=トルコは、西トルキスタンのホラサン地方で半遊牧生活を送っていたが、チンギス=ハンの圧迫を受けて西進し、小アジアの西北部に入り、やがて族長のエルトゥルルはルーム=セルジューク朝(1077〜1308、セルジューク族の一分派が小アジアに建国した国)に一軍団長として仕えた。その子オスマン=ベイ(オスマン1世、1258〜1326)は、ルーム=セルジューク朝の衰退に乗じて独立し、オスマン帝国を建国した(1299)。

 オスマン1世(位1299〜1326)は、周辺のビザンツ帝国の諸侯の領土に侵略して勢力を拡大し、オスマン帝国の基礎を築いた。次のオルハン=ベイ(位1326〜59)は、小アジア西部のブルサを攻略してここを首都とした(1326)。

 オスマン1世の孫、第3代皇帝ムラト1世(位1359〜89)は、小アジアから対岸のバルカン半島に進出し、アドリアノープルを征服し、ブルサからアドリアノープルへ遷都した(1362)。

 ムラト1世のバルカン進出に対して、バルカン諸民族はセルビアを盟主としてオスマン帝国の侵入をくい止めようとしたが、ムラト1世はコソヴォの戦い(1389)でこれを撃破し、バルカンの支配権を確立した。しかし、ムラト1世は、この時降伏してきたセルビアの貴族に陣中で暗殺された。

 なお、有名なイェニチェリが創設されたのがムラト1世の時といわれている。
 イェニチェリ(新しい兵士の意味)は、支配下のキリスト教徒の中から強健・美貌の少年を選抜してイスラム教に改宗させ、厳格な訓練を施して組織された親衛隊である。身分上はスルタンの奴隷であるが、高位・高官に栄達する登竜門でもあったので、後にはバルカン半島の住民の中には自分の子弟を志願させる者も現れた。

 ヨーロッパの軍隊はイェニチェリの楽隊の音を聞いただけで戦意を喪失したといわれ、イェニチェリは14〜15世紀の征服戦争に多くの軍功を立てた。しかし、後には軍規が乱れ、横暴をきわめ、スルタンの擁立にも関与するようになったので1826年に廃止された。

 第4代皇帝バヤジット1世(位1389〜1402)は、父の暗殺後に即位し、セルビアを従属させるとともに、ニコポリスの戦い(1396)でハンガリー王ジギスムントを中心とするバルカン諸国・フランス・ドイツ・イギリスのヨーロッパ連合十字軍を撃破し、さらにコンスタンティノープル攻略に取りかかった。

 この時、突如東方からティムールが小アジアに攻め入ってきたので、バヤジット1世はこれをアンカラに迎え撃ったが大敗して捕虜となり(アンカラの戦い、1402)、翌年獄中で急死し、オスマン帝国は一時中断した(1402〜13)。

 ティムールがアンカラの戦いから3年後に死ぬと、バヤジットの諸王子はいっせいに立ち上がりオスマン帝国の再興をはかった。しかし、同時にスルタンの位をめぐって激しく争ったので、11年間にわたる空位時代が続いた。

 スルタン継承争いに勝利したバヤジットの第3子がメフメト1世(第5代皇帝、位1413〜21)として即位し、オスマン帝国の復興に努め、次のムラト2世(第6代皇帝、位1421〜51)の時には、再びバルカン半島に領土を拡大していった。

 第7代皇帝が「征服王」・「大帝」と呼ばれるメフメト2世(1432〜81、位1451〜81)である。

 メフメト2世は、1453年、ついにコンスタンティノープルを攻略し、1000年以上続いたビザンツ帝国(395〜1453)を滅ぼし、コンスタンティノープル(オスマン帝国ではイスタンブルの呼称が一般化した)に遷都した。

 メフメト2世は、コンスタンティノープル攻略にあたって、油を塗った丸太を並べて、その上を戦艦を引っぱるという方法で山越えを敢行し、コンスタンティノープルを陥落させたというのは有名な話である。

 その後、メフメト2世はバルカン半島や黒海沿岸地方を征服し、「征服王」と呼ばれた。また国内では、法典の整備を行い、学芸を保護・奨励し、以後のオスマン帝国の大発展の基礎を築いた。

 第9代皇帝セリム1世(1512〜20)は、父のバヤジット2世(第8代皇帝、位1481〜1512)を廃位して即位し、新興のサファヴィー朝から小アジア東部やメソポタミアを奪い、1516年にはシリアを奪い、翌1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを併合した(1517)。そして、それまでマムルーク朝が持っていたメッカ・メディナの保護権を獲得し、カリフ政治の後継者としてスンナ派の信仰の擁護に努めた。

 なお、従来はセリム1世がマムルーク朝を滅ぼしたときに、マムルーク朝に亡命してその庇護のもとにあったアッバース朝の最後のカリフからカリフの称号を強制的に取り上げ、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねるスルタン=カリフ制が成立したとされてきたが、最近の研究ではオスマン帝国がスルタン=カリフ制を用いたのは18世紀後半以後のことであるとされている。

 オスマン帝国は、セリム1世の子、第10代皇帝スレイマン1世(大帝、1494〜1566、位1520〜66)の時に最盛期を迎えた。 

 スレイマン大帝は、その治世の間に13回の親征を行ったが、そのうち10回はハンガリー・オーストリアなどヨーロッパに対してであり、残り3回はアジア(イラン)に対するものであった。

 モハッチの戦い(1526)でハンガリー王を敗死させ、1529年にはウィーンを包囲した。ウィーンを陥れることは出来なかったが、このウィーン包囲はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。その後、スレイマン大帝はカール5世を牽制するために、フランス王フランソワ1世と同盟を結び、この時フランソワ1世にカピトゥレーションを与えた。 

 カピトゥレーションとは、オスマン帝国がフランスを初めとするヨーロッパ諸国に与えたトルコ領内での領事裁判権や租税免除の治外法権や身体・財産・住居・企業の安全を保障した特権のことで、オスマン帝国の衰退につれて西欧諸国から不平等条約を押しつけられる足がかりとなった。

 さらにスレイマン大帝は、1538年にはプレヴェザの海戦で(プレヴェザはギリシア西岸の地)スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破って地中海の制海権を握り、東方ではサファヴィー朝と戦ってメソポタミア南部を奪い、北アフリカではチュニスにも侵攻した。こうしてオスマン帝国は、スレイマン大帝の時に最大の領土を領有し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる当時の世界最強の国家となり、ヨーロッパの政局にも大きな影響を及ぼした。

 内政では、行政組織や管理機構を強化し、法典の集大成を行い「立法者」と呼ばれた。また学芸を保護したので独自のトルコ民族文化が発達し、トルコ建築の最高峰といわれるスレイマン寺院など壮麗な寺院が建設された。しかし、晩年には後宮の影響を受けて奢侈におぼれて財政難や2人の王子の反乱を招き、ハンガリー親征中に没した。

 その後、セリム2世(第11代皇帝、位1566〜74)の時代に、オスマン海軍はレパントの海戦(1571)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊に敗れて地中海の制海権を失った。

 オスマン帝国のヨーロッパに対する優位は17世紀中頃まで続いたが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗以後は次第にヨーロッパに対して守勢に回るようになった。

 オスマン帝国は、領内に多くの民族を抱える複合民族国家であったが、オスマン帝国は非イスラム教徒の異民族に対しては寛大な政策をとった。異教徒はそれぞれの信仰を認められ、宗教別に共同体(ミッレト)を構成し、ミッレトには大幅な自治が認められた。

 またオスマン帝国は、政教両権を握り、強大な権力を持つスルタンを頂点とする軍事的な封建国家であった。各地の領主はスルタンから授与された土地に対する徴税権を認められ、その土地の広さに応じて軍事的な義務を負担した(ティマール制、イクター制を継承した制度)。彼らは戦時には軍団を指揮し、平時には地方行政を担当した。    




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