4 ムガール帝国

1 ムガール帝国の建設と発展

 北インドでは、13世紀初めから、デリーを都とする5つのイスラム王朝が続いた(デリー=スルタン朝、1206〜1526)。

 デリー=スルタン朝最後のロディー朝(1451〜1526)末期に、中央アジアからティムールの子孫であるバーブルが西北インドに侵入してきた。

 バーブル(1483〜1530、位1526〜30)は、ティムールから5代目の直系の子孫で、母方でチンギス=ハンの血を引くといわれている。ティムール朝末期に侵入してきたウズベク族によって追われ、アフガニスタンのカーブル(カブール)を占領して小王国を建てた(1504)。その後、カーブルを拠点としてティムール帝国の再興をはかったが失敗し、その頃ロディ朝が内紛によって分裂・弱体化している情勢をみて、ティムール帝国の再興をあきらめてインド征服に乗り出した。

 1519年にインダス川を渡ってパンジャーブ地方に侵入したが、この時はロディ朝の大軍に敗れた。しかし、1525年にロディ朝の内紛に乗じて再びパンジャーブ地方に侵入し、翌1526年にパーニパット(デリーの北約140km)の戦いで、自軍の10倍ものロディ朝の大軍を撃破し、デリーを占領してムガール帝国(1526〜1858)を建国した。

 バーブルは、次いでラージプート族(インド西部に居住し、古代のクシャトリアの子孫と自称した)を従え、さらにベンガル地方(ガンジス川下流域)の諸勢力を平定してムガール帝国の基礎を築いたが、まもなくティムール帝国の故地を慕いつつカーブルで亡くなった。

 なお、ムガール(Mughal)はモンゴル(Mongol)のなまったものといわれている(バーブルはティムールの直系の子孫であり、母方でチンギス=ハンの血を引くといわれ、ティムールもチンギス=ハンの子孫と自称したことからモンゴルの呼称を用いた)。

 バーブルの死後、子のフマユーン(位1530〜56)が後を継いだが、ベンガル遠征で逆にスール朝(1539〜55、アフガン系スール族が建てた王朝、5代16年間北インドを支配した)の軍に敗れ(1539)、西北インド各地を転々とした後にイランに逃れてサファヴィー朝の保護を受けた(1540〜)。その後サファヴィー朝の支援を受けて勢力を回復し、スール朝の内紛に乗じてデリーを奪回した(1555)。しかし、その翌年書斎の階段から転落して急死した。

 ムガール帝国第3代皇帝アクバル(大帝、1542〜1605、位1556〜1605)は、父の急死によって14歳で即位し、重臣のバイラーム=ハーンが後見した。同年スール朝勢力を破り(1556、第2パーニパットの戦い)、再びムガール帝国の支配を確立した。やがて頑固なイスラム教徒であった重臣のバイラーム=ハーンを追放して実権を握り(1560)、ヒンドゥー教徒との融和政策を行った。

 アクバル大帝は、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和をはかり、ヒンドゥー教徒(ラージプート族)の王女を王妃に迎え、ヒンドゥー教徒に対する差別待遇をやめて、ヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止した(1564)。

 この政策によりムガール帝国に頑強に抵抗してきたヒンドゥー教徒の最有力部族のラージプート族も友好的な同盟者となり、アクバル大帝は1576年までに、ほぼ全北インドを支配下に収めた。さらにカーブル(1581)、デカン高原(1593)に兵を進めて支配領域を拡大し、ムガール帝国はアクバル大帝の時に最盛期を迎えた。

 アクバルは、アグラに遷都し(1558)、全国を州・県・郡に分けて中央から官吏を派遣して統治させた。しかし、彼らには土地を与えず、俸給を支給して封建領主化を防いだ。また全国の耕地を測量させて面積に応じて課税し、良質の銀貨を鋳造して貨幣を統一して財政の確立に努めた。

 アクバルはイスラム教徒であったが、皇帝を神として崇拝する神聖宗教(ディーネ=イラーヒー)を創始して諸宗教の融合をはかったが、帰依者は少なく、彼の死とともに消滅した。

 アクバルが病死すると、長子が即位してジャハーンギール(位1605〜27、「世界の征服者」の意味)と称した。ジャハーンギールは文芸を愛好して保護・奨励したので、その宮廷では華やかなムガール文化の花が開いた。しかし、彼はペルシアの美妃を寵愛し、王妃が政治を左右するようになり政治が乱れた。

 ジャハーンギールの死後、第3子のシャー=ジャハーン(位1628〜58)が兄弟との帝位継承争いに勝って即位した。シャー=ジャハーンは、サファヴィー朝からカンダハル(ジャハーンギールの時に失った地)を一時奪回し、デカン高原にも領土を拡大したが、この外征が晩年に財政難を引き起こす原因となった。

 シャー=ジャハーンも学者・文人を保護したので、ムガール文化はシャー=ジャハーンの時代に最盛期を迎えた。

 特にシャー=ジャハーンが、愛妃ムムターズ(愛称タージ)=マハルを偲んでアグラ郊外に造営した(1632〜53)タージ=マハル廟はインドを代表するイスラム建築で、白大理石の巨大なドームと美しい庭園で知られ、世界で最も美しい建築の一つとして有名である。

 しかし、シャー=ジャハーンが晩年に病にかかると帝位継承争いが起こり(1657)、シャー=ジャハーンは第3子のアウラングゼーブによってアグラ城に幽閉されて没した(1658)。   

 ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(位1658〜1707)は、シャー=ジャハーンの第3子であったが、父の病気に乗じて父帝を監禁し、兄弟4人の帝位継承争いに勝利し、兄弟達を殺害して帝位についた。

 アウラングゼーブは、長い治世の大半を外征に費やし、自ら軍を率いてデカン遠征を行い(1681)、1689年頃までにデカン高原の南端の一部を除いてほぼ全インドを領有し、ムガール帝国の領土は最大となった。インド史のなかで、ほぼ全インドが統一されたのはマウリヤ朝のアショーカ王の時代とムガール帝国のアウラングゼーブの時代だけである。 

 アウラングゼーブは厳格なイスラム教のスンナ派で、曾祖父のアクバルが廃止したヒンドゥー教徒に対するジズヤ(人頭税)を復活し(1679)、ヒンドゥー教寺院を破壊し、ヒンドゥー教・シーア派などを弾圧した。

 このため、ヒンドゥー教徒のラージプート族が反乱を起こし(1680)、さらにマラータ族やシーク教徒も反乱を起こした。特にマラータ族は、この反乱を通じてデカン高原西部にマラータ王国(17世紀中頃〜1818)を建設した。

 アウラングゼーブの死後、デカン高原・ベンガルの地方政権が相次いで自立し、マラータ同盟(1708〜1818、マラータ諸侯のゆるい連合体)は首都デリーを脅かした。またイギリス・フランスなど西ヨーロッパ諸国が沿岸の都市を拠点として内陸部にも勢力を伸ばし始めたので、ムガール帝国は急速に衰退に向かった。

2 インド=イスラム文化

 インドでは、デリー=スルタン朝のもとで外来のイスラム文化と伝統的なヒンドゥー文化との融合が進んで、インド=イスラム文化が成立し、特にムガール帝国の時代に成熟した。

 デリー=スルタン朝の時代に、ヒンディー語(北インドの共通語、現在のインドの主要な公用語)を基礎としてアラビア語・ペルシア語・トルコ語の語彙を多く取り入れたウルドゥー語が使われるようになった。ウルドゥー語はムガール帝国の民衆の間でも広く用いられ、現在のパキスタンの国語になっている。 

 宗教面では、16世紀の初めにナーナク(1469〜1538)がヒンドゥー教とイスラム教を折衷してシク教を創始した。

 シク教はヒンドゥー教の改革派で、イスラム教の影響を受けて、その教義は一神教的であり、偶像を否定し、カースト制にも反対している。シク教の信仰の中心はパンジャーブ地方のアムリットサルで、その信者はパンジャーブ地方に多く、その数は現在約1800万人といわれている。

 美術の分野では、シャー=ジャハーンが建てたタージ=マハルはインド=イスラム文化を代表する建築であり、絵画ではムガール絵画やラージプート絵画が発達した。

 ムガール絵画は、イランから伝来したミニアチュール(細密画)から発達し、アクバル・ジャハーンギール帝の保護を受けて盛んとなり、宮廷風俗・花鳥・動物・肖像画などを写実的に描いた。

 これに対してラージプート族諸王の宮廷の保護を受けて発達したラージプート絵画は庶民的であり、ヴィシュヌ信仰やそれと関連ある民間信仰の神々を題材とする宗教的な・神秘的な絵画が描かれた。




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