2 フランス革命とナポレオン

2 革命の勃発(その2)

 バスティーユ牢獄襲撃の報告が夜になってヴェルサイユ宮殿に届いたとき、ルイ16世は「なに、パリに叛乱(暴動)が起こったて?」と尋ねた。これに対して侍従は「いいえ陛下、叛乱(暴動)でなく革命でございます」と答えたといわれている。

 ルイ16世(1754〜93、位1774〜92)は、穏和で実直だがお人好しで優柔不断の性格の人物で、趣味は錠前作りと狩猟であった。特に狩猟を好み3日に1日の割合で狩りに出かけたといわれ、彼の日記には狩猟のことが多く書かれていて、狩猟をしなかった日の日記には「何もなし」と書いた。7月13日の日記は「何もなし」、そして7月14日の日記は空白で何も書かれていない。

 ルイ16世の妃が有名なマリ=アントワネット(1755〜93)である。マリ=アントワネットは、オーストリア女帝マリア=テレジアの末娘に生まれ、ハプスブルク家とブルボン家の政略結婚でフランス皇太子妃となり(1770)、1774年に王妃となった。彼女はよくいえば無邪気・純情で陽気、悪くいえば気まぐれで軽率、遊び好きであった。奢侈にふけり、宮廷費を浪費し、また無思慮な行動によって国民の人気を失った。フランス革命が始まると王政維持のために反革命工作に終始し、生国オーストリアと連絡をとり、ミラボーの死後、オーストリアへの逃亡をはかって失敗し(ヴァレンヌ逃亡事件、1791)、国民の国王への信頼を失わせた。

 バスティーユ牢獄襲撃の知らせはたちまち全土に広まり、全国的な農民暴動がおこった。農民達は貴族領主や大地主の館を襲撃し、封建的な租税や賦役の根拠となった土地台帳を焼却し、抵抗した場合には館に火を付け、領主を殺害した。このような情勢に恐怖を感じた一部の貴族は国外へ逃亡を始めた。

 この「大恐怖」に危機感をもった国民議会は、8月4日に「封建的特権の廃止」を決議した。この決議は、自由主義貴族が革命の進行を防ぐ目的で提案したものであるが、これによって農民の人格的自由が認められ、農奴制・領主裁判権・賦役・十分の一税などが無償で廃止された。しかし、生産物や貨幣で領主に納める貢納の廃止は有償とされ、20年ないし25年分の地代に相当する金を領主に支払わねばならなかったので、実際に貢納から解放された農民は少なかった。また特権身分の免税の特権が廃止され、すべての人が収入に応じて税を納めることも決議されたので、全国的な農民暴動は急速にしずまった。

 1789年8月26日、国民議会は憲法の前文にあたる「フランス人権宣言(人間および市民の権利の宣言)」を採択した。

 国民議会は憲法制定議会と改称した後、憲法制定の審議を進めていたが全国的な暴動が一応沈静化した後に審議は本格化し、8月26日に人権宣言を採択した。ラ=ファイエットらによって起草された人権宣言にはルソーの思想やアメリカ独立宣言の影響がみられる。

 ラ=ファイエット(1757〜1834)は、名門貴族の家に生まれ、パリで 学んだ後に軍に入った。アメリカ独立戦争が起こると義勇兵を率いて参加してワシントンの副官として活躍し、自由主義者として名声を博した。帰国後、自由主義貴族の代表的存在となり、三部会の召集を主張し、貴族身分の代表となった。バスティーユ牢獄襲撃の翌日にパリ国民軍司令官となり人権宣言の起草でも活躍した。しかし、革命の激化によって保守化し、1792年8月にオーストリアに亡命した。

 人権宣言は、全文と17カ条からなり、主な条文は次の通りである。
 第1条 人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また存在する。社会的な差別は共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。
 第2条 あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利は、自由、所有権、安全および圧制への抵抗である。
 第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民のうちに存する。いかなる団体、いかなる個人も、国民から明白に由来するものでない権威を行使することは出来ない。
 第4条 自由とは他人を害しない限り、何事をもなし得ることである。・・・。
 第17条 所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また事前の公正な補償の条件の下でなければ、それを奪われることはない。(山川出版社「詳説世界史」より)

 人権宣言は、すべての人間の自由・平等を高らかに謳いあげ、主権在民・言論の自由・私有権の不可侵など革命の精神を明らかにしたものである。第2条・第17条で所有権の不可侵を主張しているのは、当時の革命を指導した人々が、自由主義貴族や富裕な市民など、多くの財産を持った人々であったことを示している。

 しかし、ルイ16世は、封建的特権の廃止宣言や人権宣言の承認を拒み、軍隊をヴェルサイユに集めて議会の弾圧を企てようとしていた。また依然としてパンをはじめ食料品が値上がりして貧しい人々の生活を圧迫していたので、パリの民衆は再び立ち上がった。

 1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7000人のおかみさんが「パンをよこせ」と叫んだが、やがて国王と議会にパンを要求するためにヴェルサイユに向かって行進を開始し、ラ=ファイエットの率いる2万の市民軍が後を追った。彼らは雨の中を約20km、6時間かけて行進してヴェルサイユに到着した。

 この日もルイ16世は狩りに出かけていて、彼らはさらに4時間近く待たされた。帰ってきた国王がパンの配給を約束したので事態はやや沈静化したが、翌6日の明け方に武装した市民の一部が宮殿内に侵入し、近衛兵と衝突して数名の兵士が殺された。これに興奮した民衆が宮殿に乱入して略奪を行うとともに国王を捕らえ、国王がパリに帰ることを要求した。そしてその日の午後に国王一家をパリに連行した。これが有名な「ヴェルサイユ行進(十月事件)」である。

 国王一家は、この日からテュイルリー宮殿(パリにある旧王宮、16世紀後半に建造が始まり、ルイ14世時代に完成したが、ヴェルサイユ宮殿が造営されるとそちらに移ったので、以後長く放置されていた)に入りパリ市民の監視下に置かれることとなった。また国王一家とともに国民議会もパリに移った。

 この事件の際、ルイ16世は封建的特権の廃止宣言や人権宣言を承認したので、以後政局は安定に向かった。

 しかし、フランス革命のきっかけとなった財政危機はまったく解決されていなかった。国民議会は、その解決策として教会財産の国有化(教会財産の没収)を決議し(1789.12)、翌1790年に実施に移された。

 1790年にはいると、国民議会は封建的な地方制度を廃止して新たに全国の行政区画を定め、またギルドの廃止や度量衡の統一などの改革を実施した。またバスティーユ牢獄陥落の1周年を記念して全国連名祭が行われ(1790.7.14)、ルイ16世は憲法の維持を誓った。

 当時の国民議会を指導していたのは自由主義貴族のラ=ファイエットやミラボーらの立憲君主主義者で、彼らは革命がこれ以上進むことを望まず、立憲王政をめざしていた。

 ミラボー(1749〜91)は、名門貴族の家に生まれ、17歳で騎兵隊中尉に任官したが、放蕩と浪費で身をもちくずして投獄された。釈放後イギリスに渡り(1784)、帰国後は自由主義貴族として名声を高めた。三部会には第三身分の代表として選出され、雄弁をもって知られ、国民議会の成立にも大きな役割を果たした。 しかし、90年3月頃からたびたび宮廷に出入りし、革命派の内情を知らせて宮廷から多くのお金を受け取るようになった。

 ミラボーは、1791年4月に急病死するが、彼の死によってフランス革命は新たな展開をみることになる。    




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