2 フランス革命とナポレオン

6 総裁政府

 テルミドールのクーデタ後、政権を握った人々はテルミドール派と呼ばれる。テルミドール派は、中間派ブルジョワを中心とした穏和共和派で、その中にはダントン派やジロンド派の残党も含まれていた。彼らは恐怖政治を一掃し、ブルジョワによる支配をめざしたので、革命は再びジャコバン派独裁前の状態に戻った。

 パリの民衆は、1795年4月と5月の2度にわたって蜂起し、国民公会に押し掛けて「パンと1793年憲法」の実施を要求したが、テルミドール派は軍隊の力でこれを鎮圧し、新憲法の制定を急いだ。

 1795年8月20日、国民公会は「1795年憲法(共和国第三年憲法)」を採択した。1795年憲法は、財産資格による制限選挙を復活し、独裁制の再現を恐れ、二院制と5人総裁制を採用して権力が集中することを防ごうとした。

 新憲法による選挙(10月20日)を前にした、1795年10月5日に王党派が国民公会に武力攻撃をかけたが(王党派の反乱)、ナポレオンの指揮する軍によって鎮圧された。

 1795年10月27日、国民公会は解散し、5人の総裁からなる総裁政府が成立した。5人の総裁の中には、「第三身分とは何か」で有名なシェイエスも入っていた。

 しかし、総裁政府は権限が制限されていたこともあり弱体で、亡命貴族・王党派の策動がさかんとなり、ジャコバン派も勢力を盛り返し、不安定な政情が続いた。 こうした状況の中で、1796年5月には、バブーフの陰謀が発覚した。

 バブーフ(1760〜97)は、貧しい家に生まれ、土地台帳監査官になり、領主の不正と 土地所有制度の弊害を実感し、私有財産特に土地の私有を否定する思想を抱くようになった。革命が勃発するとパリに出てエベール派に近い急進派として活躍し、ロベスピエールの社会・経済政策の不徹底を攻撃してテルミドールのクーデタを支持した。 3度逮捕され(93・94・95)、獄中でサンキュロット主義(議会外での直接行動)とジャコバン派主義の融合による独自の共産主義思想をつくりあげた。出獄後、1793年憲法と私有財産の廃止を主張し、総裁政府の転覆を企てたが、事前に発覚して逮捕され(1796)、翌年の5月にジャコバン派の残党とともに処刑された。バブーフは、私有財産の廃止を主張したので共産主義の先駆者とされている。

 こうした政情不安の中で、有産市民や革命によって土地を得た農民は、左右両派が政権を握ることを恐れ、現状の社会の安定を願うようになり、より強力な政府・より強力な指導者の出現を期待するようになった。

 当時、この混乱をおさめて社会秩序を回復させる力は軍隊にしかなかったので、国民の期待は軍隊とその指揮者に集まり、このような情勢を背景にナポレオン=ボナパルトが登場してくる。




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