2 フランス革命とナポレオン

7 ナポレオンとその帝国(その1)

 ナポレオン=ボナパルト(1769〜1821)は、コルシカ島の貧乏貴族の次男に生まれ、フランス本土の士官学校で教育を受け(1779〜85)、16歳の時に砲兵少尉となった。ナポレオンの得意科目は数学で、歴史や地理も好きだったがそれ以外の科目はあまり勉強せず、読書に熱中してプルタルコス(プルターク)の『英雄伝』やカエサルの『ガリア戦記』などを読みふけった。卒業試験の成績は58人中の42番であったといわれている。

 フランス革命が勃発するとコルシカ(コルシカ島は中世にはジェノヴァ共和国が領有したが、フランスが1768年に買収してフランス領となった)の独立運動に参加したが(1792〜93)、その指導者と仲が悪くなり、一家でマルセイユに逃れ(1793)、後にパリに移った(1796)。

 この間、反革命軍とイギリス艦隊が占領したツーロン港の奪回に戦功をあげて陸軍少将に昇進し、ナポレオンの名声が高まった(1793)。しかし、テルミドールのクーデタがおこると(1794.7)、ナポレオンはロベスピエールの弟と親しかったためにロベスピエール派とみなされて投獄されたが1週間で釈放された。

 出獄後、失意のうちにあったナポレオンにとって彼の一生を決定づける出来事がおこった。王党派の反乱である(1795.10)。この時、国民公会から国内総司令官任命されたバラス(1755〜1829、テルミドールのクーデタで活躍し、5人の総裁の一人となる)はツーロン港の奪回に活躍したナポレオンを思い出し副官の一人に任命した。ナポレオンはパリの中心地で反乱軍に砲弾をあびせるという大胆な作戦によって王党派の反乱を鎮圧し、国内総司令官に任命された(1795)。その翌年にナポレオンは子供まであった未亡人のジョセフィーヌ(1763〜1814)と結婚した。

 王党派の反乱鎮圧によって総裁政府の信任を得たナポレオンは、若干26歳でイタリア遠征軍総司令官に任命された。1796年3月、ナポレオンはイタリア遠征の途についた。 彼はイタリアに進軍して連戦連勝、オーストリア軍やイタリア諸勢力を撃破してミラノに入城し、さらにマントヴァを攻略してウィーンに向けて進軍し、ウィーンの間近に迫った(1797.4)。オーストリアは屈服してカンポ=フォルミオの和約(1797.10)を結び、オーストリア領ネーデルランド(ベルギー)をフランスに割譲した。このカンポ=フォルミオの和約によって第1回対仏大同盟は崩壊した。

 しかし、まだイギリスが残っていた。しかも、制海権をもっているイギリスに対しては本土上陸作戦は難しかった。そこでナポレオンは総裁政府にエジプト遠征を進言した。当時イギリスでは産業革命が進展していたが、そのイギリスにとってますます重要となっていたのがインドである。そこでナポレオンはエジプトを征服して、イギリスとインドの連絡を断つことを目的にエジプト遠征の計画を進め、総裁政府も許可を与えた。

 1798年5月19日、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍、5万数千の将兵と百数十人の学者・美術家などからなる学術調査団を乗せた350隻の艦隊がツーロン港を出発した。

 イギリスは早くからフランスの動きをつかんでいたが、アイルランド上陸と思い、ジブラルタル方面を警戒していた。フランスのマルタ島攻撃の報を受けたネルソン(1758〜1805、イギリスの海軍提督)は、ただちに東地中海に向かいフランス艦隊より先にエジプト海岸に到着した。

 フランス艦隊は、途中マルタ島を占領し、アレクサンドリアに到着したのは、ネルソンがさらに東に向かった後であった。ナポレオンは、7月2日にアレクサンドリアに上陸してこれを占領し、カイロに向けて進撃した。

 「兵士らよ、このピラミッドの上から、4千年の歴史が諸君を見下ろしている」というナポレオンの有名な激励の言葉で始まったピラミッドの戦い(1798.7.20)に勝利したフランス軍は、7月23日にカイロに入城した。

 しかし、それから1週間後に、フランス艦隊を探し回っていたネルソンは、アレクサンドリア近くのアブキール湾に停泊中のフランス艦隊を発見してこれを全滅させた(アブキール湾の戦い、1798.8.1)。このためナポレオンはエジプトで完全に孤立し、帰国も援軍を求めることも出来ない状態に陥った。

 イギリス首相のピットは、ナポレオンのエジプト遠征を機に、ロシアと同盟し(1798.12)、翌年これにオーストリア・ナポリ王国・ポルトガル・オスマン=トルコが加わって第2回対仏大同盟(1799〜1802)が結成された。

 なお、このナポレオンのエジプト遠征の際、フランス軍の一隊がナイル河口の町ロゼッタで塹壕を掘っていたところ、縦1m余り・横70cm余りの石碑が出てきた(1799)。有名なロゼッタ石である。しかも、その石碑には上2段に古代エジプトのヒエログリフとデモティック、下段にはギリシア文字で同じ内容の文が書かれていた。これをもとにフランスの学者シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功し(1822)、これによって古代エジプトの文字が読めるようになったことは有名である。

 エジプトで完全に孤立したナポレオンは持久戦を覚悟した。すでにフランスに宣戦していたオスマン=トルコは、イギリスの援助を得てエジプト攻撃を準備していた。ナポレオンは機先を制してシリアに出兵したが(1799.2)、アッコンの包囲に失敗して退却し、カイロに戻った(1799.7)。

 この頃、フランス本国の総裁政府も内外の政策で行き詰まっていた。対仏大同盟軍の攻撃によって、イタリアは再びオーストリアに奪われ、ライン方面でも敗れ、国内では王党派の動きが活発になっていた。

 このような情勢を知ったナポレオンは帰国を決意し、8月23日に、少数の幕僚と学者・500人の兵を率いて4隻の船でひそかにアレクサンドリアを出発した。イギリス海軍の監視をくぐりぬけ、10月9日にツーロンの近くに上陸した。そして10月16日にはパリに帰った。なおエジプトに残されたフランス軍は、その後イギリス・オスマン=トルコ連合軍に悩まされたが、1801年に休戦条約が結ばれ、1802年に帰国した。

 1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)、ナポレオンは議会の周りを軍隊で囲み、憲法改正を迫り、抵抗した2人の総裁を軟禁し、1人を辞任に追い込んで総裁政府を打倒した。そして翌日、3人の統領からなる統領政府の樹立を認めさせ、政権を握った(ブリュメール18日のクーデタ)。

 1799年12月には、共和国八年憲法を制定し、3人の統領のうち第一統領(任期10年)が強力な行政権を握ることを定め、ナポレオンは自ら第一統領に就任して事実上の独裁権を握った。他の2人の統領の権限は弱くて相談役程度であり、立法機関は4院制でその権限も小さかった。

 事実上の独裁者となったナポレオンは、イギリス・オーストリアに講和を申し入れたが拒否され、再びイタリア遠征を行った。ナポレオンは、有名なアルプス越えによってイタリアに進出したが、このアルプス越えの情景を描いたダヴィド(後にナポレオン1世の首席宮廷画家となる)の絵はナポレオンの肖像画の中でも特に有名なものの1枚である。

 オーストリア軍の意表をついて、その背後に進出したナポレオン軍は、マレンゴの戦い(1800.6.14)で大勝した。オーストリアは再び屈し、リュネヴィル条約(1801)でカンポ=フォルミオの和約を再確認した。

 1801年、ナポレオンはフランス革命以来対立関係にあったローマ教皇ピウス7世(位1800〜23)との間に宗教協約(コンコルダート)を結んで(1801.7)教皇と和解した。ナポレオンは、ローマ=カトリック教が大多数のフランス人の宗教であることを承認するかわりに、革命時の没収教会財産を返還しないことやフランス政府が聖職者を指名して教皇が任命することを認めさせた。教皇との和解はカトリック教徒が多いフランス国民の人心をとらえる上で大きな役割を果たした。

 この頃、イギリスでは、戦争のために財政窮乏がひどく、また産業革命のさなかにあってヨーロッパ市場を失うことを恐れて和平を望む声が高まり、主戦派の首相ピットは辞任した(1801)。イギリスとフランスはアミアンの和約(1802.3)を結び、相互に占領地の多くを返還しあった。アミアンの和約によって、第2回対仏大同盟は解消し、ヨーロッパには1793年以来の久々の平和が訪れた。

 宗教協約とアミアンの和約によって、国民の熱狂的な支持を得たナポレオンは国民投票によって終身統領に就任した(1802.8)。

 この間、ナポレオンは内政にも力をそそぎ、フランス銀行の設立(1800)、税制の改革、地方行政制度の改革、公教育制度の確立などを行うとともに、1804年3月には有名な「ナポレオン法典(フランス人の民法典)」を公布した。

 ナポレオン法典は、全文2281カ条からなり、身分編・財産編・財産取得編の3部に分かれ、私有財産の絶対・個人意志の尊重・家族の尊重を基本原理とし、フランス革命で確立された近代市民社会の法原理を表現している。ナポレオン法典は、以後の世界各国の民法典の模範となり、後世に大きな影響を及ぼした。ナポレオンは、後に『回想録』のなかで、「余の真の名誉は幾度かの戦勝にではなく、余の法典にある」と述べている。

 1804年5月18日、元老院令が出され、「共和国の政府は世襲の皇帝にゆだねられる」ことが宣言され、ナポレオンは皇帝の称号を得て、ナポレオン1世(位1804〜14、1815)と称した。国民投票は圧倒的な支持をもってナポレオンの皇帝就任を承認した。これによって第一共和政は終わりを告げ、第一帝政(1804〜1814、1815)が始まった。

 1804年12月2日、戴冠式がノートルダム大聖堂で、教皇ピウス7世を招いて華やかに行われた。ナポレオンは自ら冠を頭上に戴き、自らの手で皇后ジョセフィーヌに加冠した。ダヴィドは、この戴冠式の様子を、縦610cm・横910cmの大画に書き残している。

 前年から「交響曲第3番(英雄)」を作曲していたベートーベン(1770〜1827)は、この曲をナポレオンをイメージしながら作曲していたが、ナポレオンの即位を聞き、「彼も普通の人間にすぎなかったのか」と失望し、完成したばかりの楽譜の表紙を引き裂いたと言われている。




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