2 フランス革命とナポレオン

7 ナポレオンとその帝国(その2)

 ナポレオンは、フランス産業の発展をはかり、フランス商品の市場を確保するために、フランス本国及び彼の勢力下にあるイタリア・オランダなどでもイギリス商品を閉め出そうとし、イギリス商品に重税を課したので両国の関係は悪化し、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦した(1803.5)。

 イギリスでは、ピットが再び政権を握り(1804〜1806)、ナポレオンの皇帝就任を機に、イギリス・ロシア・オーストリアとの間で第3回対仏大同盟(1805.8〜1805.12)を結んだ。これに対してナポレオンはスペインと結んだ。スペインは、はじめフランス革命軍と戦ったが、植民地貿易などでイギリスと対立し、フランス側についた。

 ナポレオンは、直接イギリスを衝こうとしてイギリス本土上陸作戦を計画し、ドーヴァー海峡を望むブーローニュに兵10数万を集結した。しかし、9月、オーストリア軍がバイエルンに侵入すると、ブーローニュの陣を引き上げてバイエルンに急行し、ウルムの戦いでオーストリア軍を完全に包囲したのでオーストリア軍は降伏した(1805.10.20)。しかし、その翌日、フランス艦隊がトラファルガーの海戦で全滅した。

 1805年10月21日、ネルソンの率いるイギリス艦隊(27隻)は、スペインのカディス港を出たフランス=スペイン艦隊(33隻)を、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー岬沖で捕捉した。ネルソンは、旗艦ヴィクトリア号に「イギリスは各人がその義務を果たすことを期待する」という有名な信号を掲げ、これに対してフランス水兵は「皇帝万歳」と叫び、トラファルガーの海戦が11時過ぎに始まった。

 ネルソンは、敵艦隊と並行して進んで砲火をまじえる普通の戦法でなく、縦陣をとって敵の横陣に突っ込んでいく戦法を取った。砲撃技術の差が勝敗の分かれ目となり、激戦ののちにイギリス艦隊が圧勝した。フランス=スペイン艦隊は沈没5隻・捕獲17隻、これに対してイギリス艦隊の損失はゼロであった。しかし、ネルソンは敵弾を受けてから3時間後の午後4時半頃に「神に感謝する。余は余の義務を果たせり」という言葉を残して亡くなった。

 トラファルガーの海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦をあきらめざるを得なくなったナポレオンは、ウルムの戦いの後さらに進んでウィーンに入城した(1805.11.14)。

 1805年12月2日、7万4千のフランス軍と9万のオーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツ(現在のチェコの地)で激突した。このアウステルリッツの戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世・ロシア皇帝アレクサンドル1世(位1801〜25)・オーストリア皇帝フランツ2世(位1792〜1806)が会戦したので三帝会戦とも呼ばれる。戦いは夜明け前に始まり、夕闇が迫る頃にまで続いたが、ナポレオンの決定的な勝利のうちに終わった。連合軍の戦死者は2万6千、これに対してフランス軍の戦死者は7千であった。

 アウステルリッツの戦いに敗れたオーストリアは、三度屈服してプレスブルク条約(1805.12)を結び、ヴェネツィアをフランス領のイタリア王国に割譲し、これによって 第3回対仏大同盟は崩壊した。

 こうした状況の中で、翌1806年7月、西南ドイツのバイエルン以下16の諸邦がナポレオンを盟主としてライン同盟(ライン連邦、1806〜13)を結成して神聖ローマ帝国から離脱した。オーストリア皇帝フランツ2世は、神聖ローマ皇帝位を放棄し、ここにオットー大帝以来844年間続いてきた神聖ローマ帝国(962〜1806)は名実ともに滅亡した。ライン同盟には、その後オーストリア・プロイセンの二大国を除く全ドイツ諸邦が加盟した。

 ライン同盟の成立やその加盟国へのフランス軍の駐留はプロイセンを脅かすこととなり、それまで対仏大同盟に参加せずに中立を保ってきたプロイセンは、イギリス・ロシア・スウェーデンとともに第4回対仏大同盟(1806.9〜1807.7)を結び、フランスとの開戦にふみきった。

 ナポレオンはドイツに軍を進め、イエナの戦い(1806.10.14)でプロイセン軍を破り、プロイセンの国土の大半を占領し、ついにベルリンに入城した(1806.10.25)。

 そしてこの地で有名な「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発した(1806.11.21)。前文8カ条、本文11カ条からなる大陸封鎖令の本文の主な条文は次の通りである。
 第1条 イギリス諸島を封鎖状態におくことを宣言する。
 第2条 イギリス諸島とのあらゆる商取引、通信を禁止する。これにもとづき、イギリスもしくはイギリス人に宛てられた、もしくは英語で書かれた書状、物品は郵送されず、押収される。
 第3条 わが軍隊又は同盟国軍隊の占領地域にある全てのイギリス臣民は、その身分、状態にかかわらず戦争捕虜とされる。
 第4条 イギリス臣民の所有する、もしくはその工場に由来する全ての倉庫、商品、物品は、その性質にかかわらず、正当な戦利品とされる。
 第5条 イギリス商品の取引は禁止される。イギリスに属する全ての商品もしくは、イギリスの工場および植民地に由来する全ての商品は正当な戦利品とされる。(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 トラファルガーの海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦をあきらめざるを得なくなったナポレオンは、大陸封鎖令によって大陸諸国とイギリスとの通商を禁じて、ヨーロッパ大陸からイギリス商品を閉め出し、イギリスに経済的な打撃を与えるとともに、フランス産業のためにヨーロッパ大陸の市場の確保をはかった。

 しかし、大陸封鎖令は、産業革命を経過して経済力を強め、またアジアやラテン=アメリカに広大な市場を持つイギリスに対してはあまり効果をあげず、むしろイギリスに穀物や木材を輸出していたロシア・プロイセンをはじめとするヨーロッパ大陸諸国の方が苦しむこととなる。

 プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世(位1797〜1840)は、ケーニヒスベルクに逃れ、同盟国ロシアとともに抵抗を続けていた。ベルリンに1ヶ月留まったナポレオンは、プロイセン王を追い、ロシア軍を迎え撃つためにベルリンを出発し、ポーランドに入り、解放者として迎えられた。そして翌1807年、ナポレオンは、アイラウの戦い(1807.2)・フリートランドの戦い(1807.6)でロシア軍と戦い、フリートランドの戦いでは大勝した。プロイセン王はさらにティルジットに退却し、フランス軍はこれを追って同市を占領し、プロイセン・ロシア両国とティルジット条約(1807.7)を結んだ。

 プロイセンにとって屈辱的な条約であったティルジット条約によって、プロイセンは大幅に領土を失って領土は半減し、その上に莫大な賠償金を課せられた。またロシアは大陸封鎖令への協力を約束させられた。そして旧ポーランド領にはワルシャワ大公国(1807〜1814)が建てられ、ザクセン王が大公を兼ねた。さらにプロイセンのエルベ川左岸(以西)全域にウェストファリア王国(1807〜13)を創り、ナポレオンの弟のジェローム(1784〜1860)を国王とした。

 1807年頃、ナポレオンはオーストリア・プロイセン・ロシアを屈服させ、7王国・30公国がナポレオンの支配下に編成された。

 ナポレオン一族も、兄ジョゼフがスペイン王に、弟ルイはオランダ王に、そして末弟の ジェロームはウェストファリア国王になり、妹たちもそれぞれ大公妃・元帥夫人などになった。

 ナポレオンと皇后ジョセフィーヌとの間には子がなかった。そのため嗣子を得るため、そしてボナパルト家の家柄を高めるために離婚を決意し、1809年にジョセフィーヌを離婚し、翌1810年にオーストリアのハプスブルク家の皇女マリ=ルイーズ(1791〜1847、フランツ2世の娘、マリ=アントワネットの姪)と結婚し、ボナパルト家はヨーロッパ第一の名門ハプスブルク家と姻戚になった。マリ=ルイーズは、翌年王子を出産し、皇子(ナポレオン2世、1811〜32)にはただちに「ローマ王」の称号が与えられた。

 この時期がナポレオンの絶頂期であった。




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