2 フランス革命とナポレオン

8 ナポレオンの没落(その1)

 ナポレオンが征服した大陸諸国の多くは絶対主義国家で、封建的な諸制度が残っていた。ナポレオンは封建的圧政からの自由を掲げ、占領した地域で封建的諸制度を廃止し、自由・平等の思想を広めたので、彼は解放者として熱烈な歓迎を受けた。しかし、ナポレオンは占領地に対してはあくまで支配者として臨み、占領地に軍隊を駐屯させて莫大な経費を負担させたので、諸国民はその重圧に苦しんだ。また彼の広めた自由思想は、被征服地の諸民族の民族意識を目覚めさせ、その民族意識はナポレオンに対する抵抗運動に発展していくことになった。さらに大陸封鎖令は、穀物や原料をイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入していた大陸諸国の経済に打撃を与え、各地で大陸封鎖令に対する反発が強まった。

 ナポレオンに対する抵抗運動にまず立ち上がったのはスペイン人であった。ナポレオンは、大陸封鎖令に従わないポルトガルをスペインとともに征服して分割したが(1807)、さらにスペインの宮廷の内紛に乗じてスペインに軍隊を送り込んだ(1808)。これに対してマドリード市民は、5月2日に蜂起した。これはフランス軍によって鎮圧され、多くの市民が虐殺・逮捕され、逮捕された多くの人々が銃殺された。18世紀スペインを代表する画家ゴヤ(1746〜1828)は、この蜂起を目のあたりにして「1808年5月3日の処刑」を描いた。

 ナポレオンは、兄ジョゼフをスペイン王に送り込んだが(1808.6)、スペイン国民はイギリスの援助を得てゲリラ戦を展開し、フランス軍を悩ました(スペイン反乱、半島戦争、1808〜14)。ナポレオンは12万の大軍を送り込んだが最後まで鎮圧できず、「スペインの潰瘍が余を破壊した」と後に回想録に書いた。

 プロイセンは、かつてフリードリヒ大王のもとで、強大な陸軍国として名をはせたが、ナポレオンに敗れて屈辱的なティルジット条約を押しつけられ、領土は半減した。

 そのプロイセンでは、シュタインとハルデンベルクのもとで、プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルクの改革)が行われた。

 シュタイン(1757〜1831)は、大学時代にイギリス自由主義の影響を受け、プロイセンに仕官して大臣となったが絶対主義を批判して罷免された(1804)。ティルジット条約後の難局に宰相として起用され(任1807〜1808)、農奴解放(1807.10)などの改革に着手した。しかし、反対派に追放されてオーストリア・ロシアに亡命し、ナポレオン打倒に奔走した。

 ハルデンベルク(1750〜1822)は、プロイセンに仕えて外相となったが(任1804〜06、1807)、ナポレオンに反対したために2度罷免された。シュタインが罷免されると宰相となり(任1810〜22)、シュタインの後を継いでプロイセン改革を推進し、行政改革・農業改革・営業の自由化などプロイセンの近代化に尽力した。

 プロイセン改革の中心は農奴解放である。シュタインは、イエナの敗戦でプロイセンの後進性を痛感し、プロイセンの近代化のためには農奴制の廃止が不可欠であると考えた。 プロイセンの農奴解放は「上から」の解放であったため、身分制の廃止・職業選択の自由は与えられたが、農奴が土地所有者になるには、領主に25年分の地代を支払うか、土地の3分の1を割譲しなければならなかったので、自作農になった農奴は少なく、ユンカー(エルベ川以東の大地主貴族)経営を成立させた。しかし、1813〜14年の解放戦争の中心は農奴から解放された農民を徴兵制で組織したプロイセン軍であった。

 プロイセン改革のもう1つの柱は、シャルンホルスト(1755〜1813)やグナイゼナウ(1760〜1831)らによって行われた軍制改革である。彼らは軍制の近代化をはかり、今まで貴族に独占されていた将校を一般市民出身者に開き、また苛酷な笞刑の廃止・外国人傭兵制の廃止などを行った。またフランスにならって国民軍の創設に努力し、1814年には国民皆兵制が実現する。

 さらにフンボルトによる教育制度改革も重要な柱であった。フンボルト(1767〜1835)は、プロイセンに仕官し、外交官として各地に赴任し、その間ゲーテ・シラーらと親しく交わった。のちプロイセン改革の文教部門を指揮し、ベルリン大学の創設(1810)などを行った。

 またベルリン大学の初代学長となったドイツ観念論哲学者フィヒテ(1762〜1814)は、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題する愛国的な連続講演を行い、敗戦に打ちひしがれたプロイセン人に、自民族の文化への自信を与え、誇りと愛国心を喚起した。

 こうして国力を充実し、民族意識を高めたプロイセンは、ナポレオンのロシア遠征失敗を機に、ナポレオン打倒に立ち上がり、ナポレオン打倒に大きな役割を果たした。

 大陸封鎖令は、ヨーロッパ大陸諸国に打撃を与えたが、特にイギリスに穀物を輸出し、イギリスの工業製品を輸入していた農業国ロシアにとって、なかでもロシアの地主貴族にとっては大打撃であった。ロシアのツァーリズム(ロシアの専制君主体制)は貴族の支持によって成り立っていたので、皇帝アレクサンドル1世は貴族達の穀物の密輸出を黙認し、再三にわたるナポレオンの抗議に応じなかった。1810年、ロシアは大陸封鎖令を破って中立国の船舶の寄航を許可し、イギリスとの貿易を復活した。大陸封鎖令はロシアを除外しては意味をなさないので、ナポレオンはついにロシア遠征(モスクワ遠征、1812)を決意した。

 ナポレオンは、1812年6月、ニーメン川沿岸に「大陸軍」を集結させた。この時集結した大陸軍はフランス・オーストリア・プロイセン・ライン同盟・ポーランド・イタリアなどから成る混成部隊で、その数は約60万人(この数は第一次世界大戦まで破られることがなかった)であった。これに対するロシア軍の総数は約16万人であった。

 6月4日、ニーメン川の渡河が始まり、数日間続いた。しかし、暑さのために多数の兵士が日射病で倒れ、おびただしい落伍者が出たため、国境を越えてロシアに侵入した大陸軍は約47.5万人であった。ロシア軍は、兵力があまりにも違うのでひたすら決戦を避け、退却に退却を重ねた。

 ロシアに侵入した大陸軍はさらに進軍するが、炎天下の行軍・生野菜の不足・赤痢などで次々と倒れ、ヴィデブスク(国境から約300km)に到達した頃(7月24日)には、37.5万人になっていた。ロシア軍はさらにスモレンスクまで退却し、大陸軍もスモレンスクに進軍し、これを攻撃・占領するが(8月16日)、彼らが入城したときには町は大火におおわれ、ロシア軍はすでに撤退していた。しかもスモレンスクの大陸軍は15.5万人に減っていた。

 これより前、ロシアの軍事委員会は、敗戦の原因は指揮の不統一にあるとして、ロシア最古参の老将クトゥーゾフ元帥(1745〜1813)を総司令官とした(8月8日)。




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