2 フランス革命とナポレオン

8 ナポレオンの没落(その2)

 クトゥーゾフは、モスクワの西方約90kmのボロディノで初めて激戦を交えた。ナポレオンの率いる13万の大陸軍とクトゥーゾフの率いるロシア軍が激突したが勝敗は決せず、双方とも4万の死者を出し、両軍とも勝ったと称した(ボロディノの戦い、1812.9.7)。

 1812年9月14日、ナポレオンはついにモスクワに入城した。しかし、町には人影がなかった。当時のモスクワの人口は約30万人、市民の大部分は町を立ち退き、残っていたのは親仏派の人々と貧しい人々5千から1万人といわれている。

 14日の夜から、有名な「モスクワの大火」がおこり、モスクワの町は4日間にわたって燃え続け、町の4分の3を焼き尽くした。火事の原因については、ナポレオンの兵士達による失火説もあるが、ロシアの焦土作戦による放火であった。食料と居所を失った大陸軍は農村へ移動した。

 ナポレオンは、アレクサンドル1世に手紙を出して和平交渉を試みたが、1ヶ月経っても返事は来なかった。ロシアの冬が近づきつつあった。ナポレオンはついにモスクワからの退却を決意し、1812年10月19日、モスクワからの退却が開始された。

 ナポレオン軍が退却を始めると、ロシア軍・ゲリラが奇襲を仕掛けてきた。しかも11月にはいると「冬将軍」が到来し、ひどい寒気が始まり、雪が降り続いた。ナポレオン軍は、11月8日、やっとスモレンスクにたどり着いた。ナポレオンの最初の計画ではここで越冬するつもりであったが、スモレンスクには食料や燃料はほとんど無かった。

 モスクワを退却するときには10万であった軍が、スモレンスクでは3.7万になり、そしてベレジナ川まで退却したときには3万になっていた。10万のロシア軍の追撃を受けるなかで、11月26日に始まったベレジナ川渡河は凄惨をきわめ、3万の兵は8500になった。そして12月10日、ニーメン川を渡ってロシアを脱出したのはわずか5000であった。12月18日、ナポレオンはパリに戻った。

 このナポレオンのロシア遠征については、トルストイ(1828〜1910)の壮大な長編小説『戦争と平和』(1864〜69)に詳しく書かれているのでぜひ一度読んでみてほしい。またロシアの作曲家チャイコフスキー(1840〜93)も、ナポレオンのロシア遠征を題材として 「序曲1812年」を作曲した。

 ナポレオンがロシアで敗れたとの報はたちまちヨーロッパ各地に広まり、諸国はいっせいに解放戦争に立ち上がり、第6回対仏大同盟(1813〜14)が結成された。

 1813年10月16日、ロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突したライプチヒの戦い(諸国民戦争)は、3日間にわたって激戦が続いたが、フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りのために同盟軍がナポレオン軍に大勝し、ナポレオンはパリに逃げ帰った。同盟軍はライン川を越え(1814.1)、1814年3月31日パリに入城した。

 1814年4月、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し(4.2)、ナポレオンは退位宣言に署名した(4.11)。そしてフォンテンブロー宮に別れを告げ(4.20)、5月4日にエルバ島に流された。

 1791年以来国外に亡命していたルイ16世の弟が5月に帰国し、ルイ18世(位1814〜24)となり、ブルボン朝が復活した。ウィーンでは、ナポレオンの没落後の秩序再建のためにウィーン会議(1814.9〜1815.6)が開かれたが、領土配分をめぐって難航した。

 ナポレオンは、同盟国側によってエルバ島(ナポレオンが生まれたコルシカ島の東48kmの所にある島)に流されたが、その時同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取る。彼は皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」というゆるやかな条件であった。

 ナポレオンは、ウィーン会議が紛糾していること、またルイ18世の反動政治に対する国民の不満が高まっているのをみて、1815年2月26日にひそかにエルバ島を脱出し、1000の兵とともに3月1日にカンヌに上陸し、ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進んだ。ルイ18世が派遣した討伐軍もネイ元帥(1769〜1815、特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将)をはじめ次々とナポレオンに従った。 3月20日、ナポレオンはパリに入り、再び皇帝位に就いた。以後再び退位するまでは、ナポレオンの「百日天下」(1815.3.20〜1815.6.22)と呼ばれている。

 当時のパリの新聞の見出しは、ナポレオンが北上するにつれて変わっているが、マスコミの権力者に対する姿勢が見えていておもしろい。「怪物、流刑地を脱出」、「コルシカの狼、カンヌ上陸」、「悪霊、グルノーブルを占拠」、「専制皇帝、リヨンに入る」「ボナパルト、北方へ進撃中」「皇帝陛下、フォンテンブローへ入られる」。

 ナポレオンのエルバ脱出の報がウィーンに伝えられると、列強は急速に妥協に向かい、6月にウィーン議定書に調印し、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの間で第7回対仏大同盟(1815)が結成された。

 ナポレオンは、わずか2ヶ月の間に25万の軍を集め、12万の兵を率いてパリを出発し、ベルギー方面へ進出し、6月16・17日にプロイセン・イギリス軍と戦い、プロイセン軍に打撃を与えた。

1815年6月18日、ワーテルローの戦い。
 ナポレオン軍7.4万、ウェリントン(1769〜1852、イギリスの軍人、後に首相となる)の率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突した。午前11時半頃戦いの火ぶたが切られ、フランス軍は攻撃をくり返したが、イギリス軍はよく守りぬき、午後4時半頃、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍が来援してイギリスと合流すると、イギリス・プロイセン連合軍が優勢となり、午後8時頃フランス軍の突撃が失敗に終わり、フランス軍の敗北は決定的となった。フランス軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2.2万であった。

 ナポレオンは、パリに逃げ帰り(6.21)、6月22日に退位した。7月に入って連合軍がパリに入城し(7.3)、ルイ18世が再び即位した(7.8)。ナポレオンは連合軍の決議によって、アフリカ西岸のかなた約1800kmにある絶海の孤島、イギリス領のセント=ヘレナに流され(1815.10)、1821年5月5日に波乱の生涯を終えた。その死因については胃ガン説が有力であるが、ヒ素による毒殺説もある。




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