3 産業革命

2 機械の発明

 技術革新は、まず木綿工業の分野で始まった。
 イギリスの伝統的な工業は毛織物工業であったが、17世紀後半以後、東インド会社がインド産の綿織物(キャラコ)を輸入するようになると、吸湿性・耐久性に優れ、しかも様々な用途に使えるインド=キャラコは物珍しさもあって、イギリス上流階級の間で一種のブームを呼び起こした。

 そのため、毛織物業者は猛烈に反対し、インド産綿織物の輸入を禁止させた(1700)、しかし綿織物に対する需要は根強く、インド産の綿織物に匹敵する優れた綿織物を作り出すことがイギリスの新興木綿工業の目標となった。工程が多く、機械化が困難であった毛織物工業に比べて機械化が容易であり、また毛織物工業のような規制がなかったので、木綿工業の部門では次々と独自の技術が発明され、木綿工業は18世紀後半には毛織物工業 に代わって繊維産業の中心となった。

 まず、毛織物工業の工場で布を織る職人であったジョン=ケイ(1704〜64頃)が、1733年に「飛び杼」を発明した。

 当時の織布は、織工が一方の手で杼(ひ、横糸を縦糸の間を通すための織機の付属物)を縦糸の間に投げ込んで、もう一方の手で受けていたので、織布の幅は織工の両手の幅で決定され、広幅の織布を織るには1台に2・3人がつかねばならなかった。

 そこでジョン=ケイは、織機の中央のひもを引くと横糸用の杼がバネで左右に飛ぶ「飛び杼」を発明し、これによって速度は2倍になり、広幅の布を織ることも可能になった。この発明によって糸が不足するようになったので、今度は優れた紡績機の発明が促された。

 紡績は、昔から手動式の紡ぎ車で行われていたが、紡錘は1つしかなかったので、1人で1本の糸しか紡げなかった。

 ハーグリーヴズ(?〜1778)も布を織る職人であったが、1764年頃多軸紡績機を発明した。多軸紡績機はローラーを利用して1人で同時に8本の糸を紡ぐことが出来た。彼はこの紡績機に妻の名にちなんでジェニー紡績機と命名した。ジェニー紡績機は人力で運転でき、軽便で廉価であったので急速に普及し、その改良機は1人で80本の糸を紡ぐことが出来た。

 アークライト(1732〜92)は、貧しくて教育も受けられなかったのでかつら師となった。1768年にジェニー紡績機を改良して、水力紡績機を発明した。この機械は水力を動力としたが、後には蒸気機関を動力とし(1790)、強い糸が連続生産が出来るようになった。

 水力を動力として使うには、工場を急流を利用しやすい山の中腹に建てなければならなかったが、蒸気機関を利用するようになると立地の制約がなくなり、工場は平野部に建てられるようになって大量生産が可能となった。

 ジョン=ケイやハーグリーヴズをはじめ発明家の多くが貧困・不遇な生涯を送っている中で、アークライトは富と名誉を得たまれな人物であった。

 クロンプトン(1753〜1827)は、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所をとって、1779年にミュール紡績機を発明した。ミュールとは、らば(ろばと馬のあいの子)のことである。

 ミュール紡績機は、非常に優れた紡績機で、水力紡績機では強いが太い糸しか紡げなかったが、ミュール紡績機によって細くて強い糸が紡げるようになって製品の質が安定し、インド産の綿織物に匹敵する綿織物が生産できるようになった。しかし、クロンプトンは特許を取らなかったので不遇のうちに没した。

 優れた紡績機の発明によって、糸が生産過剰となったので、織物機の改良が必要となった。そうした中で織布部門での重要な発明がカートライトによってなされた。力織機の発明である。

 カートライト(1743〜1823)は、牧師でありながら機械の発明に熱中し、1785年にアークライトの水力紡績機にヒントを得て力織機を発明した。力織機には初め馬の力が利用されたが、後には蒸気機関が使用された(1789)。力織機は、飛び杼の3.5倍の能力といわれ、これによって綿織物の生産量は著しく増加した。

 ミュール紡績機や力織機の発明によって、今度は原料である綿花の処理が追いつかなくなった。

 綿花は、インド・西インド諸島・アメリカ南部などから輸入されていた。アメリカ南部の綿花は良質だが綿の繊維が種子にがっちりついていてはずす作業が面倒であった。綿花の処理の能率をあげる機械の発明を依頼されたアメリカ人のホイットニー(1765〜1825)は、1793年に綿繰り機を発明した。

 綿繰り機は、回転筒に針金を鋸歯状に取り付けて、綿の繊維を種子からはずす機械で、この発明によってそれまで処理困難であったアメリカ綿の処理能力が30〜50倍にあがり、人件費は1割以下となった。このためアメリカ南部における綿花栽培は急激に増加し、アメリカ南部の綿花王国が出現する端緒となった。

 産業革命の進展には、機械の原料である良質の鉄を作る製鉄業や蒸気機関の燃料となる石炭を採掘する石炭業などの発達が不可欠であった。

 当時の鉄の生産には木炭が使用されていたので、製鉄所は森林があるところに作られた。ところがイギリスでは、すでに16世紀頃から木材や薪炭が不足する状態が生じていた。そのため、17世紀頃から木炭にかえて石炭を使用する製鉄法が考えられてきた。これに成功したのがダービー父子(父1677〜1717、子1711〜63)である。

 父は石炭を燃料とする製鉄法を発明し(1713頃)、子が1735年コークスを燃料とする製鉄法を発明した。この発明によって燃料費は一挙に従来の1割以下になったといわれている。その結果、それまで鉄をスウェーデンなどから大量に輸入していたイギリスは初めて鉄を自給することが出来るようになり、18世紀末頃からは鉄の輸出国となった。

 イギリスでは、17世紀頃から家庭用・工業用燃料が薪炭から石炭に切り替えられるようになり、さらに製鉄の燃料として利用されるようになると石炭業がますます盛んになった。

 しかし、当時の炭坑には種々の問題があった。最大の問題はとめどもなく湧いてくる地下水をどうして排水するかということであった。当時は主として馬力による揚水作業が行われていたが排水作業が追いつかず、多くの炭坑が廃坑となった。

 そこで登場したのが蒸気機関を動力とする排水ポンプである。最初の蒸気機関はセーヴァリ(1650頃〜1715)によって1698年に発明された鉱山用揚水ポンプであった。

 しかし、セーヴァリの蒸気機関には欠陥が多かったので、機械技師のニューコメン(1663〜1729)がセーヴァリの蒸気機関を改良して1710年頃に実用化した。ニューコメンの蒸気機関もシリンダーと冷却器が共用なので熱効率が悪く、燃料費がかさむため炭坑の排水用にしか使われなかった。 このニューコメンの蒸気機関を大幅に改良したのが有名なワットである。

 ワット(1736〜1819)は、グラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の修理を依頼されて大改良を決意し、1765年にシリンダーと冷却器を分離することで出力を従来の2倍以上に、石炭消費量を7分の1に減らすことに成功した。さらに改良を加えて、1781年にはピストンの往復運動を回転運動に替えることに成功し、これによって従来炭坑の排水用にしか使えなかった蒸気機関があらゆる機械の動力として利用することが出来るようになった。

 こうして、木綿工業から始まった産業革命は、蒸気機関の利用による動力革命を引き起こし、さらに機械工業・製鉄業・石炭業など他の工業部門を飛躍的に発展させた。その結果、工場制機械工業が成立・発展し、良質・安価な商品が大量に生産されるようになり、人々の生活を大きく変えていくこととなった。




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