1 自由のための戦い

1 ウィーン会議

 フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理のため、1814年9月から翌15年6月にかけてウィーン会議が開かれた。この会議は、オスマン=トルコ帝国を除く全ヨーロッパ諸国、90の王国・53の公国の代表が参加して開かれた大国際会議であった。

 各国の主な出席者は、イギリスからはウェリントンと外相カスルレー、オーストリア外相メッテルニヒ、プロイセン首相ハルデンベルク、ロシア皇帝アレクサンドル1世、そしてフランス外相タレーランらであったが、会議を主宰したのはメッテルニヒであった。

 メッテルニヒ(1773〜1859)は、ライン地方の名門貴族に生まれ、大学で法律・外交を学んだ後に外交官となった。フランス駐在大使(1806)などを歴任し、1809年には外相となり、ナポレオンとオーストリア皇女マリ=ルイーズとの結婚を画策した(1810)。ナポレオンのロシア遠征失敗後は、解放戦争に参加し(1813)、ウィーン会議では議長として新秩序の形成に努めた。1821〜48年までオーストリア宰相として国政を指導するとともに、ウィーン体制の維持に努めた。

 会議は、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの指導のもとに進められたが、領土配分をめぐる問題では各国の利害が対立して解決は困難をきわめ、「会議は踊る、されど会議は進まず」と評された。しかし、ナポレオンのエルバ島脱出の報が届くと(1815.2)、各国は急速に妥協にふみきり、ワーテルローの戦いの直前にウィーン議定書(ウィーン条約)が調印された(1815.6.9)。

 ウィーン会議の基本原則となったのは、正統主義と勢力均衡であった。
 正統主義とは、フランス外相タレーランによって提唱され、フランス革命前の主権と領土を正統とし、革命前の正統王朝と旧制度の復活をめざす復古主義的な理念である。

 タレーラン(1754〜1838)は、貴族の家に生まれたが聖職者となり、三部会には第一身分の代表として選出された。フランス革命を支持し、教会財産の国有化を提案して教皇から破門された(1791)。8月10日事件(1792)後、イギリスに亡命し、後にアメリカにも滞在した。総裁政府の成立(1795)後、帰国して外相となり(1797〜99)、ナポレオン政権と第一帝政でも外相となった(1799〜1807)。しかし、やがてナポレオンに見切りをつけ、ブルボン家に接近して王政復古に尽力し、王政復古後三度外相となり、ウィーン会議にはフランス代表として参加し、正統主義を提唱してフランス(ブルボン家)の戦争責任を巧に回避した。

 ウィーン議定書は、全文121カ条からなるが、その主な内容は次の通りである。
 正統主義の原則に基づいてフランスではブルボン家が復位した。フランスの国境は1792年の国境に縮小されたが、フランスはわずかな犠牲を払っただけであった。スペインでもブルボン家が復位し、またローマ教皇領も復旧した。

 しかし、ライン同盟が廃止されたドイツでは、神聖ローマ帝国は復活されず、オーストリア・プロイセン以下の35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が組織され、オーストリアが連邦議会の議長として指導権を握った。

 オーストリアは、ネーデルランド(後のベルギー)を放棄し、その代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得したので領土は一つにまとまった。

 プロイセンは、ポーランド分割で獲得したポーランドの領土を放棄する代償として、ザクセンの北半部と当時ドイツで最も産業が発達していたライン中流左岸地域を獲得した。

 ロシアは、ポーランド・フィンランド・ベッサラビアを獲得した。ワルシャワ大公国の大部分がポーランド王国となったが、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることになったのでポーランドは事実上ロシア領となった。

 イギリスは、ナポレオン戦争中に占領したマルタ島と旧オランダ領のセイロン島・ケープ植民地の領有が認められた。

 オランダは、セイロン島・ケープ植民地を失った代償としてオーストリア領ネーデルランド(後のベルギー)を獲得した。

 上の領土問題の取り決めをみると、ポーランド・ベルギーなどの弱小国・弱小民族の犠牲の上に立って強国の勢力均衡(balance of power)がはかられていることがよく分かる。

 またスイスは永世中立国となった。




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