1 自由のための戦い

2 ウィーン体制とその動揺(その1)

 ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの新しい政治体制はウィーン体制と呼ばれる。ウィーン会議の基本原則である正統主義は、フランス革命前の状態に戻し、それを維持していこうという復古主義であったので、ウィーン体制は保守反動体制となった。そして革命や戦争の再発を防ぎ、この新しい国際秩序を守るために、神聖同盟や四国同盟が結成された。

 神聖同盟は、1815年9月にロシア皇帝アレクサンドル1世(位1801〜25)が提唱し、オーストリア皇帝・プロイセン国王の3人の間で結ばれた同盟であったが、やがてイギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝を除く各国君主が参加した。神聖同盟は、各国君主がキリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和維持のために協力することを謳った精神的な盟約で条文などはなかった。

 イギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝は神聖同盟に参加しなかった。 イスラム教国であるオスマン=トルコはキリスト教君主との同盟を拒否して参加しなかった。 またローマ教皇は、ロシア皇帝のいうキリスト教とはギリシア正教であるので、カトリックの教理と合致しないこと、そして新教諸国との同盟を避けるために参加しなかった。 イギリスの不参加の理由は簡単に説明できないが、当時の外相カスルレーは、精神的な盟約で罰則も締結者の義務も定められてない神聖同盟を「気高き神秘主義とナンセンスの紙切れ」と酷評している。

 神聖同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和を維持することを謳っているところから、国際協力による平和維持の思想の先駆とされているが、その前提になっているのは反動的なウィーン体制の維持にあり、現在の国際連合などとは全く性格が異なるものであった。

 1815年11月、同盟国とフランス間で第2次パリ条約が結ばれ、フランスの国境を1790年の国境に戻すこととフランスに賠償金を課すことが定められた。この第2次パリ条約と同じ日にイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの間で四国同盟が結ばれた。

 四国同盟の目的は、四カ国が協力してヨーロッパの平和を維持する、そのためにフランスを監視してボナパルト家の復活やフランスの侵略戦争を防止しようとするものであった。ところが1818年9月には、監視されるはずのフランスの加入が承認され、五国同盟が成立した。

 五国同盟の成立によって、その目的はフランスを監視することから、フランス革命やナポレオン支配のもとで目覚めた諸国民の間に起こってきた自由を求める自由主義運動や民族の統一と外国支配からの解放を求める国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧し、反動的なウィーン体制を守るということに替わった。

 保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用した。しかし、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々とおこった。

 ドイツでは、1817年10月18日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行った。自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700〜800人の学生が集まり気勢を上げた。

 メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出した。彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議した(カールスバード決議、1819.9)。これによってブルシェンシャフトは壊滅した。

 スペインでは、1820年1月にスペイン立憲革命が起こった。 
 スペインでは、ナポレオンに対するスペイン反乱(1808〜14)のさなかにコルテス(議会)が成立し、主権在民・男子普通選挙制・出版言論の自由などを定めたスペイン最初の自由主義憲法(1812年憲法)が定められていた。しかし、ナポレオンの没落後、ブルボン朝が復活すると憲法が廃止され再び専制政治に逆戻りしたので、リェーゴ(1785〜1823)らが立憲革命を起こし、1812年憲法の復活を宣言した(1820.1)。

 革命が全国に波及するなかで、国王も憲法復活を布告し(1820.3)、スペイン立憲革命は成功するかに見えたが、1822年の選挙で急進派が勝利すると国王は神聖同盟に干渉するように要請した。

 これを受けて五国同盟はヴェロナ会議(1822.10、ヴェロナは北イタリアの小都市)を開き、スペイン革命の鎮圧をフランスに委譲することを決議した。この決議に基づいて、フランスは翌1823年にスペインに出兵してマドリードを占領し(1823.8)、スペイン立憲革命は挫折した。そしてリェーゴは王党派によって処刑された(1823)。

 このヴェロナ会議で、イギリスはスペインへの干渉に反対し、五国同盟は事実上崩壊した(1822.10)。イギリスが反対したのは、スペイン及びその中南米植民地がイギリス市場及び原料の供給地として価値が高く、それを失うことを恐れたからである。

 イタリアでも、カルボナリ(炭焼党)によるナポリ革命(1820)・ピエモンテ立憲革命(1821)が起こった。
 カルボナリは、1806年頃、南イタリアで結成された革命的秘密結社で、専制政治の打倒・自由平等の実現を目的とした。1814年以後、北イタリアにも浸透するにつれて立憲自由主義運動としての性格が強まった。彼らは炭焼き人夫を装って山中に入り、炭焼き小屋で集会を開いたので炭焼党と呼ばれるようになったといわれている。

 カルボナリは、1820年7月にナポリで蜂起し、国王にスペインの1812年憲法とほぼ同じ内容の憲法を認めさせた。翌1821年3月にはピエモンテ(北イタリアのポー川上流地方、トリノを州都とする)でも蜂起し、サルデーニャ(サルディニア)国王にスペインの1812年憲法の採用を約束させた。

 これに対してメッテルニヒは、オーストリア領の北イタリアに革命が波及することを恐れ、1821年にライバッハで五国会議を開き、イタリア革命に対する武力干渉とオーストリアの出兵を承認させた。オーストリア軍は、1821年3月にナポリを占領し、4月にはピエモンテに侵入してカルボナリを中心とする革命派軍を破り、革命派を徹底的に弾圧した。

 ロシアでは、1825年12月にデカブリスト(十二月党)の乱がおこった。
ナポレオン戦争でフランス軍と戦ったロシアの青年貴族将校達は、自国の後進性を痛感し、フランス軍が強い理由は、フランス軍の中心である農民が農奴から解放された中小土地所有農民であることだと考えた。彼らは帰国後秘密結社をつくり(1816)、専制政治と農奴制の廃止・憲法制定を目標とした。

 1825年12月、アレクサンドル1世が急死してニコライ1世(位1825〜55)が即位した日に、デカブリストは蜂起したが鎮圧された。

 こうして、1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧された。




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