2 ヨーロッパ世界の拡大

2 インド航路の開拓

 ポルトガルのアフリカ西岸の探検は、ジョアン1世(位1385〜1433)の第3子であるエンリケ航海王子(1394〜1460)の奨励によって大いに進んだ。彼はアフリカ西北端のセウタ攻略(1415)に軍功をあげ、その後アフリカ西岸の探検・インド航路の開拓を奨励した。天文台や航海学校を建設し、ボハドル岬(1434年に到達)・ブランコ岬(1441年に到達)・ヴェルデ岬(1445年に到達)からガンビア河口までを探検した。しかし、彼自身はひどい船酔いのためほとんど航海をしなかったといわれている。

 エンリケ航海王子の事業を受け継いだジョアン2世(位1481〜95)の時代に、コンゴ河口(84)に達し、1488年にはバルトロメウ=ディアス(1450頃〜1500)がついにアフリカ南端の喜望峰に達した。ディアスはアフリカ南端の岬を「嵐の岬」と名付けたが、ポルトガル王はインド航路開拓の希望を抱いて「喜望峰」と命名した。

 中世ヨーロッパを代表する地図は、○の中にTの字を書き、地図の中心にイェルサレムを置き、世界の陸地をアジア・アフリカ・ヨーロッパに3分するもので、TOmapと呼ばれている。15世紀末に、古代ローマのプトレマイオスの地理書と地図がラテン語に訳されて西ヨーロッパに広まった。しかし、プトレマイオスの世界地図ではアフリカの赤道以南は「未知の土地」となっていて無限に広がっていたので、アフリカを回ってインドに行くことは不可能であると考えられていた。

 ディアスによってアフリカ南端が確認されたことは、その意味で大変な発見で、これによってアフリカ南端を迂回してインドへ行ける可能性が強まった。

 ヴァスコ=ダ=ガマ(1469頃〜1524)は、ポルトガルの航海者で早くから船乗りとして知られ、ポルトガル王からインド航路発見の命を受け、1497年7月に4隻約170人の船団でリスボンを出航した。

 喜望峰を回ってアフリカ東岸を北上しマリンディに至った(1498)。そこでインドへの道を知っているイスラム教徒の水先案内人イブン=マジードを雇い、彼の案内でインド洋を横断し、ついにインド西岸のカリカットに到着し、インド航路を開拓した(1498)。

 そこで香辛料を買い付け、季節風を利用して帰航し、1499年9月にリスボンに帰着した。帰着したのは3隻60人以下で、大半は壊血病で死亡した。持ち帰った香辛料の量はわずかであったが、その売却によって約60倍の利益を得たと言われている。その後もインドに航海し、インド総督に任命されたが(1524)、その直後に病死した。

 ポルトガル人は火砲の威力を利用して、インドのゴアを占領し(1510)、総督府を置いてアジア貿易の拠点とした。さらにモルッカ諸島(現インドネシア、香辛料の産地で香料諸島とも呼ばれる)を獲得し、香料貿易を一時独占した。

 1557年にはマカオの居住権を得て、対中国貿易の拠点とし、種子島に漂着後(1543)は日本とも通商を行った。

 こうしてポルトガルの首都リスボンは香辛料・絹といった東方物産の取引の中心となり、特に香辛料の直接取引は莫大な利益をもたらし、リスボンは一時世界の商業・貿易の中心として繁栄した。




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